しずかなアンテナ

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工業的であるとはどういうことか 小綺麗版ガンダム雑感


このエントリで紹介されている「小綺麗版ガンダム」↓の映像を見た。


たしかに

 わりとカット頭が止まっていて、止絵が多くて、セガサターンの特典アニメかよ!というレベル

 というかんじ。ショートフィルムやムービーではなく、あくまで「途中でレンダリングしてみた動画ファイル」として受け取った方がいいのかもしれない。

 いちばんひどいと感じたのはシャアザクが突然登場するところで、前後の作劇が無いために「なんか赤い別のロボットが出てきて、なんか強い」という流れになってしまっている。最低限、シャアが「デニムが部下を抑えられんとはな…」というセリフをファルメルの艦橋かザクのコクピットで(手袋をはめなおしながら)ニヤついて言うシーンが必要だっただろう。そうすれば、この変なヘルメットの青年将校がコロニーへの襲撃を指揮していて(ヒートホークでビルを壊すザクがファイアーエムブレムの山賊にしか見えないのだが)、戦場の状況に余裕で対処する有能キャラで、実際になんだか強い、という前後の流れが立ち上がる。それが無いのでシューティングゲームに突然カットインしてくる中ボスみたいな扱いになっている。もちろん、この動画を見るひとが100人いたら150人はそれがシャアだとわかるのだけれど、それを前提にしてしまったら作品ではなく二次創作だ。

 

 動画を批判しているだけなのは生産的でないので、上記の企画でうたわれている「工業的デザイン」について考えてみたい。正確には、そもそも工業的とはいかなることなのか、ということをロボットアニメを題材にして考えてみたい。

 工業的であることには、おおざっぱには2つの本質があるとおもう。一つは、操作から結果までの中間に、時間や論理の面でラグがあることだ。工業的であることは、そのラグに人間が従属して、人間がそれに合わせて自己の行為を調節してゆかなければならない、ということでもある。さらに別の言い方をすれば、いわゆる「フィードバック」を意識しながら操縦・操作するということ。自転車のブレーキを握ったり、自動車のアクセルを踏み込んだときを想像してみればよい。身体のアクションから、半呼吸、間を置いて装置が動作する。その動作に合わせてまた身体がアクションを送りこむ。長期的にも同様で、家庭で電気を使うというアクションに、発電所が応答して、煙突からススが出たり放射性廃棄物が溜まったりする。工業的とはラグがあることだ。

 一般のよくできたロボット作品やSF作品は、このラグの感じをうまく出している。

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ガバガバ警備トリントン基地

 たとえばこの0083冒頭の、ガトーがサイサリスを強奪するシーン。核攻撃用の巨大MSの脚部がもったりと動く。操縦席に勝手に入った男が何か操作をしたことで、MSの左足がまず動いたのだなという作劇になっている。手前に走るコウは、その動きの鈍さを把握したうえで試作2号機のつま先の前をよこぎる。

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ガバガバ警備アケロン基地

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ガバガバ防備第3新東京市

 もう少し近年の作品から。エヴァ試作5号機を操縦する真希波は操縦席のスライドを目一杯引くが、エヴァの巨体が持つ慣性はそれに応じきれず派手なドリフト走行になる。その後に乗り込んだ2号機では真希波の手の動きにエヴァの動きが追随する。ただしこのときも動きには半拍ほどのラグがある。それをわざわざ見せているシーン。この演出が巧いのは、単に操作から動作までラグがあることを示しているのではなく、操縦者がそのラグを意識しながら操作していることが観客に自然とわかるようにしていること。

 おそらく、巨大ロボットやメカの重量感や加速度や慣性は、ただ「ズシーン」という効果や、手描き作画特有とされる「タメ」「キレ」だけで成立するのではない。それらはむしろ周辺的な演出で、この操作と動作のラグに対する意識が作品内で統一されていることが核心にあり、それを観客が納得しなければ「ズシーン」も浮いてしまう。エヴァとはそういう工業製品だ、ということを真希波も他のチルドレンもネルフのスタッフも共有して身動きしている。そして、この作品内で統一された「ラグ感」は、演出の規定を超えてストーリーや世界観にも連関する。たとえばダミープラグを挿入されたエヴァ初号機がそれを拒むというシーンも、操作に対する動作のこの作品特有のラグ感を前提としている(この場合はうまくいかないという動作である)。そうして、シンジ君がゲンドウの元に現れ、最強クラスの使徒と戦うという見せ場につながる。

 

 ところで、このラグ感の演出が日本とアメリカでは方向性がやや異なるような気がしている。といってもアメリカでの例はひとつしか思い当たらないのだけれど、『パシフィック・リム』のグォォォンズズゥゥンうわぁぁ感である。

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ガテン系ロボットヒーロー

 『パシフィック・リム』のラグ感は極端なまでに強調されている。人間がひとつ操縦する、イェーガーがひとつ動作する、その反動が人間に返ってくる、という一連のプロセスが、これでもかというほど揺れや叫びやよろめきで表現される。しかしそれはけっして過剰な演出ではない。イェーガーとカイジュウはそれほどまでに巨大なのだ、人類の危機も同様に巨大なのだという世界観にもとづいており、それが丁寧に一貫されているので観客もそれにのめりこむことができる。グォォォン、ズズゥゥン、うわぁぁぁ、グォォォン、ズズゥゥン、うわあぁぁ、グォォォン行くぞ、ズズゥゥン、うわぁぁぁ、グォォォン食らえ! キシャァァ、ズズゥゥン、ドガァァン、USA!USA!(エンドロール)。そういう作品。

 これに対して、日本の多くのロボットアニメは人間の操作からロボットの動作までのラグをできるだけ圧縮して描く*1パシフィック・リムと反対に、人間の操縦や意識にできるだけぴったりとロボットが追随するのが「かっこいい」のだという基本理念のようなものがある。この場合も、ラグを無くすのではなく、最低限のラグは残っていてパイロットはそれを意識しているという仕方でむしろ強調している。「あたかも手足のようにロボットを扱う」のが日本のロボットパイロットのあるべきすがたである。ただしこのとき、ロボットを本当に身体のように表現すると、ただの着ぐるみになってしまう。「あたかも」がどう実現されているのかを描き出すのが作品の造り手の腕の見せどころというわけだ。

 正統の宇宙世紀サーガでは、この「あたかも」が作品内の技術発展として描かれているのが巧い。マグネット・コーティング、サイコミュ、全周モニタコクピットサイコフレームというように、ロボットが次第に衣服に近づいてゆく(モビルスーツはそもそもパワードスーツなので当然なのだが)。「ラグ感」の統一が作品の支柱をなしていることがわかる。日本の巨大ロボットは衣服であり、延長された身体である。アメリカの巨大ロボットはトラクターに近い。動作の演出としては『アイアンマン』もスーツに見せかけたトラクターである。

 

 第2に、工業的であることとは、端的に、ひとが無造作に死ぬことである。工業以前の社会でも、ひとは不条理に死んでいた。ただしそれは、明確な悪意や暴力にさらされた結果であったり、権力の横暴であったり、不運や運命や、あるいは神々のたわむれの結果であった。ところが工業的なものはもっと違う仕方で人間を殺してゆく。単純にいえば、工業的なものはそこに人間がいることを全く気にせずに作動し、殺してゆく。

 わたしが冒頭の小綺麗版ガンダムの動画を見てはっきりと違和感を感じるのは、この工業的デザインなるものが人間の死とどういった関係にあるのか、ということを何ら示していない点にある。f:id:pikohei:20200102085718p:plain

 たとえばこのシーン。ガンダム無人のままアムロを追い、かれに搭乗するよう迫っているらしいのだが、富野=サンならこのあたりで無関係の市民を2,3人まきぞえで殺すだろう。

 

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スヴァトラーナ・アレクシェーヴィチの作品に出てきそう

  F91序盤の、上から落ちてきた薬莢が幼児を抱く女性の頭にあたる有名なシーン。この薬莢は、この女性を殺すためにこのサイズであるのではない。この女性を殺すためにここで撃っているのではない。それが動作しているだけで全く無意味にひとが死んでゆく。そこに工業的なもののもう一つの本質がある。そうした死は、その工業製品や工業社会が、より多くの利益や保護や幸福を生み出しているからという理由で正当化される。それは絶対に違うはずだ、正当化されてよい死など無いはずだ、という思考が、工業的なものを描く作品の、主要テーマでなくとも、前提のひとつでなければならないだろう。

 この第2の本質は、ラグ感という第1の本質と関係している。つまり、ひとが殺されるのは、操縦から動作までのラグの間に巻き添えになるということだ。ブレーキを踏んだが間に合いませんでしたという話。

 

 冒頭の動画に戻って考えてみると、工業的デザインとは結局のところ「どうしたって人がそれで殺される」デザインであるほかない。それは兵器として弾を撃つから殺すのではない。ただ歩いているだけで、あるいは整備されているだけで、そこに人間を巻き込み、鋏み、引掛け、飲み込んで、轢き潰す。アストナージはヤクト・ドーガの手で潰されたケーラの遺体を見たが、整備士としては見慣れたものに違いなかっただろう。もちろん、すぐれた工業的デザインは事故を未然に防ぐことに貢献するが、それも無造作で無意味な人間の死を前提にしている。

 してみれば、1stガンダムの「…人々は自らの行為に恐怖した」というナレーションは、この作品のまさに出発点である。コロニーという「工業的デザイン」の極致のような存在が、何億人もの人間を殺すために使われた。そこから出発した作品こそ価値があるとおもう。

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ガバガバ地球連邦軌道艦隊

  

少し関連するエントリ:

yomu.hateblo.jp

 

 

*1:国内作品では、『ビッグオー』や古くは『鉄人28号』がパシフィック・リム系列であるだろうか