しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

海底古細菌とウイルス

先日、東北のある場所でひとりで原稿を書いていたとき、品の良い初老の女性と、小学校低学年らしき男の子が隣席に座った。


二人は祖母と孫らしかった。なんとなく会話を聞いていると、男の子がたいそう聡明であることが自然と伝わってきた。賢しらなことを言うのでもなく、ただ思ったことや最近知ったことをおばあちゃんに話しているだけなのだけれど、魂がクリアであるなぁというかんじがした。

かれは海底古細菌という生き物がいるという話を始めた。テレビで見たのだという。ところがおばあちゃんはピンと来ない様子である。男の子はおばあちゃんのスマホを借りて、その番組のサイトを開いて見せた。たぶん海底の熱水噴出孔などが映っているのだろう。おばあちゃんはへぇーと言って、これがそうなのね、海底に細菌みたいなのが、ウイルスがいるのね、と言った。


なにかがすれ違っているな、とわたしは隣でおもった。細菌とウイルスは違うのです、と声をかけようかと思ったが、それは思いとどまった。

このおばあちゃんは聡明な孫に何か悪い振る舞いをしていたのではない。男の子の話にそれなりに相槌を打っている。ただ、男の子の好奇心や知的なこころの動きが、おばあちゃんのそれと共鳴することがなくて、彼女の笑顔で粉砕されている。それがなんとも言えず、悲しいような、しょうがないような、もったいないような気持ちになった。


このおばあちゃんにとって、世界は語彙の数しかない。彼女が10万の語彙を持っていたとすれば、世界は10万種類の動作や物体しかない。そして名付けられていないモノや知られていないものの領域はそもそも存在しない。「わからないもの、知らなくていいもの」というラベルが貼られているだけである。もし新たに教えられるモノゴトが出てきても、それは既知の語彙体系のなかに即座に収納される。海底に細菌がいても月面にクマムシがいても、そうなのね、で終わってしまう。

一方、この男の子は「なにかよく分からないモノの世界」の存在を直観している。驚きがある。そこに分け入ってゆくためにさまざまな手段や思想があることに興奮している。それは知的な態度の基盤のひとつである。

別にこのおばあちゃんを悪役にするつもりは毛頭なくて、たいそう優しそうな方だったのだけれど、この二人の哲学がどうしても重なり合わない様子を横から聞いていた。ただそういう話でした。