しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

座学はきつい

6月、「人と防災未来センター」は研修シーズンに入ります。

危機管理室や防災関連部局で働く自治体職員の方が日本中からセンターに来られ、3~4日間、集中講義形式で災害対応に関する最新の知識やノウハウや事例を習得します。わたしのような1年生研究員も同席して、自治体職員の受講生みなさまといっしょに災害対応のエッセンスを学びます。

 

集中講義の1/3ほどはグループワーク形式ですが、残りは一般的な座学です。講師陣はとても豪華です。自分にとっては贅沢な機会で、とても楽しい。これは社交辞令ではなくて、本当に新しい知識や考え方が頭にドカドカインストールされてゆく気分です。

 

ただ、楽しいのだけれど、一日ずっと座学というのは、どうにもしんどい。講師からこちらの頭に運び込まれる知識そのものは、とても貴重で面白いけれども、それがひたすら一方的に「運び込まれてゆく」というプロセスそのものは実はかなり負荷がかかる。そのことに今更気づきました。

 

座学は楽しいがしんどい。受け身であるのがしんどい。ずっと知識が頭に送り込まれ続けられ、こちらは身動きできない。ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅうと重たくなってゆく。押し込まれてゆく。ずうっと話を聞いているのだから無理もない。そのまま自分がへしゃげてしまう気がする。ずいぶん非人道的な方式ではなかろうか、とさえ思うようになる。

 

ここまで考えたところで、この座学という方式を小中高12年間受け続けてきたのだなと気づきました。よく12年間生き延びたなぁとおもいます。