しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

避難勧告・指示は必要か

豪雨シーズンが近づいている。

雨量が増えると、避難準備・避難勧告・避難指示が市町村から市民に向けて発令される。市民はそれに応じて、もしくはそうした警報を待たずに避難することが理想とされている。

第六十条 災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これらの者に対し、避難のための立退きを指示することができる。(災害対策基本法

 

ところで(先日、座学で教えていただいたばかりなのだけれども)、市町村が避難勧告や指示を発令する根拠となる気象情報のほとんどは公開情報である。

気象庁 Japan Meteorological Agency

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気象庁ウェブサイトより

特に「土砂災害警戒判定メッシュ情報」 は強力で、基本的に、このメッシュで自分の所在地が赤や紫になったらめっちゃヤバイと考えて逃げればいい。高齢者や小さい子どもさんがいる場合は黄色の段階でも気にするぐらいでいいかもしれない。地域のハザードマップで避難場所と経路を確認すれば、さらに命を守る率が高まる。

 

市町村による避難勧告や指示の発令も、基本的にこうした気象庁国交省・県からのデータがトリガーとなっている。つまり、市民と自治体は基本的に同じデータを持っている。避難勧告や指示は市民に知られていない特殊なデータにもとづいて発令されるのではない。

 

とすると、そもそも自治体による避難勧告・指示は必要であろうか、という問いが生まれる。市民自身が避難勧告のトリガーとなるメッシュ情報等を確認して判断することが可能だからだ。

いっそのこと避難勧告・避難指示そのものを撤廃する……という選択肢もありうる。この選択肢に賛成するひとは次のような主張をすることができる。

自治体が避難勧告・避難指示を出すから市民は受動的になってしまう。だから、自治体はそこからすっぱり手を引き、すべて市民の判断に任せる。すると市民自身が自分で判断して早期に避難し、じぶんの命をじぶんで守ることができる。

・市民が能動的に判断する文化が根付けば、平時からハザードマップを確認しておくなど、コミュニティの防災意識も高まるはず。

・土砂災害や洪水が生じると自治体の災害対応部局はきわめて多忙になる。避難勧告・指示そのものを撤廃することで、他の緊急業務にリソースを集中することができる。とくに、「わたしが住んでいる地区は避難勧告エリアなのか、どこに避難すればいいのか」といった市民からの問い合わせをシャットアウトすることができる。(こうした電話の対応に忙殺されて、より重要な避難の命令を出すのを忘れてしまったという事例が実際にある)

 

もちろんこれはあまりに乱暴な意見である。避難勧告・指示の撤廃に反対するひとは、次のような主張をすることができる。

・撤廃論はデジタル・ディバイドの問題を考慮していない。だれもが自分でウェブサイトにアクセスして合理的に判断できるわけではない。とくに高齢者や障碍者や外国人住民は情報のアクセスと判断に高い負荷がかかる。

気象庁のウェブサイト等がダウンした場合はどうするのか。

・避難勧告や指示が出ると地域で一斉に行動することが可能だが、それが無い場合、住民各自が独自判断で自由行動することになり、収拾がつかなくなって余計に危険。

・単純な話として、市民はずっと気象庁などの情報を監視できはしない。日中は働いていて気象の急激な変化(の予測)に気づくことができないかもしれないし、夜中なら寝ている。防災無線(サイレンや個別受信機)やスマホの緊急速報があれば、夜間でも気づくことができる。

・避難所がどのタイミングで開設されるのか、わからなくなる。

 

現実的な話としては、避難勧告や指示をまるごと撤廃することは不可能だし短所の方が大きいだろう。しかしその一方で、避難についての情報を洗練させればさせるほど、市民が受動的になってしまうという原理的な問題は残り続ける。そのため「行政からの情報に鋭敏になってください」という命令と、「行政からの情報に依存しないでください」という命令の両方を発し続けるという矛盾した状況になっている。(さらには、結局こうしたダブルバインドの中に市民を束縛するというメタ的な構造が強化される)

 

すこし視点を引いてみると、この問題は、「災害(防災・復旧・復興)における行政の役割はどの範囲までなのか」「行政の本当の仕事は何なのか」というより大きな問いの一部であることがわかる。とりわけ小規模な町村のリソースは限られている。人口もさらに減少してゆく。行政は全てを抱え込むことはできなくなりつつある。どの仕事をどの機関にどれぐらい割り当てるのかという「社会のトリアージ」をしてゆく必要がある。

この問いはまた、「災害における市民の役割は何か」という問いでもある。それはまた、国家、社会、民主主義とは何か、どのようなものであるべきかという問いにつながってゆくのだろう。減災は社会哲学なのだ。