しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

休日について

日曜日に学会に行っていた。京都駅のまわりは人がとても多かった。朝から夕方まで主に哲学対話の話を聞いていた。そしてその振替休日を、きょう取った。

 

休みの日だな、という感覚をじんわり感じている。久しぶりなのか、初めてなのかわからない。

 

とくにこの5年は「休日」が無かった。といっても常に休みなく働いていたわけではない。むしろべっとりとダレる日も多かった。

この5年は、奨学金をいただきながら大学院にいた。平日と休日の区別がはっきりしなかった。一日の生活でも、作業をしている時間と休んでいる時間のメリハリを付けづらかった。ぼんやりダレていると罪悪感に襲われた。努力すると達成感はあるが、どこか虚ろだった。

 

就職すると、平日と休日のコントラストが急に明確になった。月次なことだけれど、休むことは大切だなと考えるようになった。あの独特の、秒針が罪責感と焦りでぶよぶよするかんじが、いまは無い。そうか休日ってこういうかんじなんですな、とおもっている。おもっているが、その実感の中身を説明することが意外とむずかしい。

休日とは何なのだろうか。休息とは何なのだろうか。

強いて言えば、時間から値段が剥がされるということが、ひとつの本質ではないかとおもう。10時に家を出て、いまは13時すこし前だけれど、10時も13時も平等に散逸してゆく。この3時間を有意義に使ったのか、というようなことを考えなくて済んでいる。時間のもとで自分の行動を制御しなくてよい。それは、楽なことだ。

すると、意義や価格といったことから自分をいったん引き離すことが、休日の役割なのだろうか。

 

***

 

10時くらいまでFactorioをして家を出た。阪神三宮駅で降りて、昇ったことのない出口から地上に出ると、現在地と方位がわからなくなった。ビル街の四ツ辻のすみだった。ひとつ隣の筋のマルイをぼんやり眺めていると、日曜日に市バスの事故があった筋のひとつ東にいるとわかった。じぶんの街のことなのに意外とわかっていない。そのまま歩くとすぐに区役所に着いた。引っ越してきたとき交付された健康保険証を返却した。3月の保険料だけは4月27日に引き落としになりますので、と窓口の職員さんに言われた。エレベーターでいっしょになった夫婦らしきひとたちが保育所のことを話していた。小さな男の子も駆け込んできて、父親らしきひとに言われてエレベーターの「2階」のスイッチを背伸びして押した。2階でエレベーターは止まり、男の子は駆けて出た。

 

ファストフード店のすみの席で翻訳作業をしていたら、隣席の男性がスマホを片手に持ちながらグラスの底をストローでしゅるしゅるしゅるしゅると吸い続けた。無作法なことだとおもった。その男性が退席して、つぎに座ったスーツ姿の男性もやはりスマホを片手にグラスの底をストローでしゅるしゅるしつこく浚いはじめた。なにかそういう教団・・・? 俺はひそかに付け狙われている・・・?