しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

記憶の丸み: 西川祐子『古都の占領』(2017)

 以前お世話になっていた先生に今の自分の研究(災害の記憶に関すること)を話したとき紹介された本を読み始めている。  

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

 

 

 進駐軍による京都市の占領を、副題にあるように個々人の「生活史」から描きなおしてゆく研究。

 読んでいてとても不思議で印象的なことは、史料から析出される占領軍の動向や、当時を知るひとびとのオーラル・ヒストリーによる記述の合間に、終戦時小学生だった著者自身の記憶が入り混じってゆくこと。

 

 占領期の京都のまちなかでは、〔進駐軍兵士の家族宿舎が設置された〕植物園内で働き、ときには軍用ジープで送られて帰宅する女性があるとよくない噂がたった。ついこのあいだの敵軍に立ち混じって働くのかという非難のまなざしと同時に、植物園内の豊かな生活や豊富な物資にたいする羨望の視線があった。わたし以外の家族は疎開先での生活がつづき、占領の末期になるまで京都に戻らなかった。その間、祖父母の高齢者家庭に貴重品であった食物や布などを少しずつ届けてくれたのは、母親のかつての同級生たち、なかでも、自分で働くことによって生きてゆかねばならない女性たちであった。そのなかには植物園でタイピストとして働く女性がいた。(76頁)

 

 この本は著者自身の記憶を書くためのものではない。記述の中心はあくまで膨大な史料と個人の小さな生活史にある。けれども、その記述に誘い出されるようにして、著者の思い出が文章のあちこちに埋め込まれてゆく。

 不思議で素晴らしいことは、史料や他者の生活史による記述と、著者自身の思い出による記述との間が、とてもなめらかに、なだらかに続いてゆくことだ。歴史の研究書のなかに著者の個人的な記憶が挟み込まれることは実は珍しくない。ただ、多くの例では、著者の記憶が書き込まれるとき、奇妙な力みというか、他の記述との裂け目のようなものが文章のなかに現れる。「卑近な例で恐縮だが実は筆者も…」とか、「個人的な回想を差し挟むことは歴史研究としての節度を破ることになりかねないかと恐れるのであるが…」といった留保の表現がわざわざ付け加えられる。もちろんそれは(その著者の)研究の方法論にとって重要なことではあるけれど、読んでいて凸凹したかんじを受ける。

 この本はそれと正反対だ。史料と生活史の引用の合間にいつのまにか著者の短い回想が混じり、すっと静かに退いて、また史料の引用にもどる。力みがなく、語りすぎることもなく、抑制を強調することもない。なだらか。

 (外傷的なものをここでは除くとして、)記憶とはそもそもそういうものではないかとおもう。他人の記録や語りを聞いているうちに、おのずから自分自身の記憶がよみがえらされ、他人の語りに重ね合わされる。そこには視覚や聴覚の分節が持つような「切れ目」があまりなく、なめらかさや曖昧さが伴いつつ、自身と他人の記憶の違いと共同性が感じ取られている。