しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

臨床哲学と「方法」

臨床哲学に固有の方法はあるのかと問われることがある。これはおろそかにできない問いだけれど、これまで自分はうまく答えることができなかった。いま完全な答えを出すのではないけれど、その手がかりを考えてみようとおもう。

なおここで言う臨床哲学は、さしあたり大阪大学の文学研究科の臨床哲学研究室でのことに絞っている。狭い範囲である。

 

普通、ある学科や学問、講座や研究室はそれぞれ固有の方法をもつ。その内部ではさまざまな分化や更新があるにしても、おおまかな基本理念や、あるいは微細な技法については一つの枠がある。

これに対して、臨床哲学は、これが当然でしょうという固有の方法や技法をほとんど持たない。しかし支離滅裂行き当たりばったりではない。

固有の方法は無いのだけれど、傾向はある。それは複数の方法を自由に採用する、組み合わせるということだとおもう。

「複数の方法」と表現すると論が混乱してしまうのだけれど、たとえて言うと「カード」がたくさんあるようなかんじだろうか。現在、臨床哲学研究室にある「カード」は、たとえば「現象学」「精神分析」「フェミニズム」「ジェンダー」「心理学」「哲学対話」「インタビュー調査」「参与観察」「看護」「ケア」「生命倫理」「文献研究」「表現活動」「学校」などである。

いま挙げたカードは微妙にレベルの異なるものが混じっている。たとえば「ケア」と「インタビュー調査」と「現象学」はお互いに取り替えてもほとんど意味が無いが、ここではとりあえず混ぜておく。(また、「現象学」といってもフッサールレヴィナスとガダマーでは当然同じにはできないので、要するに無数にカードがあるということにしていただきたい)

臨床哲学の「方法」は、これらのカードを自分で自由に組み合わせるところから始まる。「現象学」と「フェミニズム」、「哲学対話」と「ケア」と「インタビュー調査」のように。「デッキを組む」という表現がわたしにはしっくり来る。

院生や研究者はそれぞれ自分のテーマや好みに合わせてカードを選び、組み合わせを試してゆく。だから同じ研究室にいるひとであっても、それぞれデッキは異なる。しかし個々のカードについてはそれぞれそれなりに理解し勉強するので、話が噛み合わないということはない。

 

ただし、デッキを組むこと自体が目的ではない。臨時に寄せ集めた即席の「方法」によって、別の具体的なテーマに取り組んでゆくということが「臨床」の勘所になるのだとおもう。

だから、たとえば「フェミニズム」と「倫理学」、「現象学」と「ジェンダー」を組み合わせるといっても、2つの分野の文献の解釈を噛み合わせて新たな考え方を探るということではない。この場合、あくまで方法は「文献研究」であり、そのサブセットとしてフェミニズム現象学があるということになるだろう。そうした研究はもちろん学問と社会の全体にとっても大切だし、臨床哲学でもずっと必要である。ただ、「臨床」が持ちうる独特の不安定さやライブ感からは少し距離があるかもしれない。

わたしが思うことは、複数のカードのすり合わせ自体を目的にするよりも、そのことに時間をかけるよりも、とりあえず選んだカードを使って具体的なテーマに四苦八苦して取り組んでゆくうちに「デッキ」がだんだん有機的に機能し始める、そこに臨床の醍醐味があるのではないかということだ。呉越の兵同士に舟上で議論させてから対岸を目指すのではなく、舟が沈まないよう共に帆を操作させたほうがかえって速く対岸に着く、すると呉の兵も越の兵もいつのまにかお互いの長所短所を理解している。そういうこともあってもよいのではないか。

(なお、わたし自身の博論での発見というか提案は、上記のカード群のなかに「神学」をこっそり混ぜてみてもいいんじゃないかということだった。このことについてはじわじわ考えてゆこうとおもう)