しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

死と死に方

自分自身の「死」という出来事が何であるのかを考えようとするが、いまひとつ掴みきれない。将来絶対確実に起きるはずなのだけれど、あまりリアルなものとして考えることができない。「死」を理念や概念として把握しようとするのがそもそもの間違いなのだろう。

 

すこし角度を変えて、理念としての死ではなく、有り様としての「死に方」を考えることはできるかもしれない。

病死、事故死、自殺、刑死、戦争や災害による死、殺人、焼死、餓死。人間の「死に方」は大雑把に分ければ10種類前後だろう。「死因」「死の具体的状況」「死に至る背景」を細かく加味すれば数百種類になるかもしれない。

いずれにせよ、自分はそのなかのいずれかの仕方で死ぬ。その死に方や時期を自分で選ぶことはきわめて難しい。自殺であれば、狭い意味での「死に方」と時期を選択できるように思える。けれど、自殺という死に方を選ぶに至る理由や背景については必ずしもみずから選択したものではない。

 

世の中には誰もちょっと予測しなかったような死に方で亡くなるひとが実際にいる。自宅の眼の前まで来て凍死したひとや、老人の暴走プリウスにはねられて亡くなったひとや、地下鉄に乗っていたら毒ガスをまかれて亡くなったひとや、サプライズのために友人が砂浜に掘った落とし穴に埋まって亡くなるひとがいる。当人にとっても周囲にとっても悲劇的というほかない。

しかしまた、平凡な死に方をしたので良かったねということにもなるまい。予想外の死も予想の範囲内の仕方での死も、おそらく格別の差があるものではない。

 

「死に方」は多種多様だけれど、状況で分類するなら、実はさほど多様でもないかもしれない。

つまり、ひとは

「当人も予想しえなかったような意外な仕方で/よくある仕方で」「周囲のひとに看取られながら/たったひとりで」「最後まで苦痛や恐怖や不安に覆われながら/平安に」「尊厳をもって/尊厳をひどく根こぎにされながら」「社会や共同体に大きな影響を引き起こしつつ/ひっそりと」「若くして/天寿を全うして」「自分が死ぬことを知りながら/それすら気づかぬうちに」死ぬ。

ここに挙げた分類は7項目なので、人間に死に方の状況はおおむね2の7乗にすぎないということになる。もちろん分類軸を8、9と増やしてもかまわないのだが、いずれにせよそこまで多くはない。

 

そのどれかに、数十年後、あるいは数年後、数分後の自分が「行きつく」。なんらかの死に方で死ぬ。それはやはり不思議なことであるけれど、死に方という角度から考えると、理念としての死よりは、いくぶん身近に感じることができるかもしれない。