しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

読書の声のスピード感

本を読んでいるとき、頭の中で「音声」を再生するように読むのか、それともそうした音声抜きに読むのかという違いがある。これは個人差があるらしい。

わたしの場合は、読書体験の8割ほどは前者の「音声」型だが、読んでいるうちにいつのまにか音声が抜けているときがある。

 

ところで最近気づいたことなのだけれど、その頭の中の音声の再生にも、本や著者によって、速度というか、テンポの違いがある。そしてテンポは声のトーンに直結している。

 

具体的には、熊野純彦さんの翻訳のベルクソンは、頭のなかでどんどん早口になってゆく。頭の中の声のトーンも甲高くなってゆく。翻訳文が読みやすいことが原因であろうかと思ったが、同じように読みやすいアウグスティヌスの『三位一体』は、声のトーンというか、喉の「かんじ」が自分にとてもしっくり来る。中井久夫さんの書くものを読むときも、スピードと喉のかんじが自分のからだからほぼ離れない。

なので、3人とも直接会ったことや声を聞いたことはないのだけれど、なんとなく、ベルクソンは声が少し高いひとで、アウグスティヌス中井久夫は自分と同じような喉のかんじなのだろうと勝手に考えている。勝手すぎる。(外国語の文献については、原語で読むとまた印象が違うだろうけれど)

 

奇妙なのは鷲田清一で、蝶の詰まった潜水艦が高い空をぽーっと飛んでいるのを眺めているかんじがする。ボルヘスはわたしが頭の中で声を出すよりも意識してゆっくり喋ってくれる。九鬼周造はすこし高い音で話すが、さほど速くはない。