しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

眠ることと死ぬこと

 子どものころ、眠りは死で夕方は老いだった。19時からテレビでアニメを見て21時前には布団に入っていた。水曜日はドラゴンボールで金曜日はドラえもんだったが、いずれも放送が始まる時間帯には、わたしはもうほとんど全てをあきらめていた。人生を毎晩どこかに返却しなければならないということを当時のわたしは知っていた。17時、18時、19時、これらの時間帯は自分の扉をひとつずつ閉じてゆく儀式に充てられていた。夕暮れの序盤は物憂げで、徐々に不気味さが窓から部屋に浸み出してきた。昼とは全く異なる世界が降りてくるのだ。見渡す範囲の世界と母の台所(この2つは等価である)が、この切り替えに粛々としたがっていた。

 昼間、わたしはロボットや人形やその他のおもちゃや本と同盟を結んだ。かれらはわたしを守ることを誓った。しかし実際のところ、夜の侵入が始まるとかれらは無力だった。わたしはかれらを手に取って遊ぶことができなくなった。わたしは次第にひとりになった。父が仕事から帰宅して、妹と弟もいたけれど、そうした人間同士、家族の間柄とは別の次元で、わたしは夕暮れや時間においてひとりだった。いろいろなものが暖かかったり、ひんやりしていた。ひとりになると、それらの感覚がいっそう自分に際立ってくるのだ。そうして不安の明るい夜の底で、ものをじっくり触ったり聞いたり見たりしていると、ときたま、見ているものがどんどんどんどん遠く小さくなることがあった。見つめれば見つめるほど遠ざかった。カレー皿も本棚も母の顔も。わたしは今でも、ドラゴンボールを見ながら夕食をひとりで食べているとき(妹が隣にいたかもしれない)、机を挟んで座っている母の顔がどんどんどんどん小さくなっていくのを驚きを持って見守っていたのを覚えている。母は「そんなじっと見てどうしたん」と笑いながら言ったので、わたしは母がこの奇跡を共有していないことに気づいた。母にとって自身のサイズは変わっていなかったので、この「縮小」はわたしにのみ生じている知覚上の現象にすぎないということを知った。そしてまた、これはちょっとした眼の錯覚といったこととはどこか質的に異なるということもわたしは直感していた。だからわたしはひとりだった。そして死ぬのだ。

 アニメは夜からの最後の支払いだった。死と引き換えの。それなのに、ドラゴンボールはなかなか話が進まなかった。ナッパは強かった。どれだけ抵抗しても30分ずつ時計は進み、21時が最後の「引き返し不能地点」だった。そしてわたしは死んだ。22時から6時までは存在しなかった。テレビの「砂嵐」はこれを裏書きしていた(だから、映画版ドラえもん『ブリキのラビリンス』の序盤で、深夜つけっぱなしのテレビの砂嵐画面の向こうからホテル宿泊契約の声が聞こえてきて…というシーンは、とても納得がいった。こわかった)。夜の間、わたしは存在していなかった。あるいは見えないところにいた。わたしは見ることができず、見られることができなかった。デメテルが迎えに来てくれるのをじっと待っているほかなかった。

 夕方の昼寝やうたた寝はなお恐ろしいことだった。気づいたら夕方になっていたり、1時間が経っているということがこのうえなく恐ろしかった。わたしは突然眠りとタオルケットと疲れに身体を奪われ、そして理由無く復活するのだ。窓から斜めに差し込む黄金の光が床や壁や肌にへばりつくころ、わたしは何度もラザロだった。そうするほかなかった。昼寝で30分や1時間が突然すぎると、生涯さいごの一日の大半を無為に過ごしてしまったような衝撃を受けた。このようなわけで、子どもにとって「昼寝」がきわめて恐ろしいものであることを、世の親御さんや保育士さんにはよくよく考えてほしいとおもう。

 15時や16時は老いにさしかかる難しい時間帯で、このころに外や友達の家で遊んで時間を忘れていられることは幸いだった。遊びは死と老いから逃れる最良の手段だった。けれども夜は来た。夕食があり、健やかな熟睡があった。

 生が夜に打ち勝つことがたまにあった。それは喘息が始まる夜である。実はこの大気に酸素はほとんど含まれていないということを、わたしの両胸の隙間が教えた。息は狭まり、わたしは布団の上で身を起こし、咳を繰り返した。父がわたしを背に負い、喘息が収まるまで暗い部屋をうろついた。その間、夜は退いた。