しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

3人以上で話すことができない

数年前から気づいていたことなのだけれど、わたしは3人以上のグループで会話することがほぼできない。たとえば自分含めて4人がひとつのテーブルに座っていて、ひとつの話題について順に交代しながら会話を続ける、ということがほぼ不可能である。

やってやれないことはないのだけれど、スキューバダイビングの装備を付けて中距離走をさせられているような気分になる。

 

実質的に会話が可能である上限は2人で、この場合は相手の年齢や性別や立場の上下といったことに関係なく話すことができる(話をしやすい相手、しにくい相手というのはあるが)。

 

3名以上との会話になった場合、その内部で1対1の会話をそのたびに設けることで、擬似的に複数との会話を実行してみる。これはすこしだけはうまくいく。しかし次第に複数の相手が一斉にこちらに顔を向けてきて、「顔が足りない」という感覚に陥る。

 

考えてみると、3名以上で同時に会話するというのは、きわめて高度な技術である。特定の相手の顔や存在を認識するのではなく、全体の「雰囲気」のようなものを把握して、自分が話したり他のひとの話を聞いたり、こまやかにモードを調整している。その雰囲気に合わせた微調整が自分には難しい。難儀なことである。

 

いまいちど過去の例を思い起こしてみると、参加者が6名以上になると負担がきわめて軽減する。おそらくこのあたりの数になると、会話参加者の責任が分散され、ほとんど発話せずだまっていても「会話」に参加しているとみなされるからだろう。3,4,5人あたりが鬼門である。

また、この人数であっても、相手や参加者にとっては問題なく参加できることもある。おそらく「場」の雰囲気を保持するのがうまいひとがいてくれるときや、相手がよく知ったひとで自分が完全にリラックスできているようなときなのだろう。