しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

台風と蝶

f:id:pikohei:20180905114706j:plain台風が去って大学に来てみると、通学路に使っている小道が倒木で塞がれていた。7月の台風でもあちこち倒木があったので、今回も木が折れたり倒れたりしているだろうと予想したけれど、まさかいつもの「この道」がざっくり塞がれるとは思っていなかった。

さらに驚いたのは、共通教育校舎そばの立派な松の木が幹の中程から完全に折れていたことだった。樹齢50年はあるに違いない。折れた幹は、校舎入り口のレンガ製の飾り壁にぶつかり、これを少し壊していた。こちらの飾り壁はたしか去年作られたばかりだ。

 

このときわたしは何に驚いたのだろうか。さいしょ、「まさかこの太い松の木が真っ二つになるだなんて」という驚きを感じたのだと思っていた。7月の台風では、この松の木に近い別の木が同じように折れていた。しかしその木は、今回の松の木よりもずいぶん細かった。太いから折れない、とは限らないのだろう。

しかしさらに思い返してみると、「この松の木が」という驚きは、どこかニセモノめいている。というのも、そこにその松の木があることを台風以前にもわたしは一応知っていたけれど、その木をたいして気にかけていなかったからだ。「台風などでは折れないに違いない、太く立派な松の木」が折れたから驚いたのではない。そもそも折れる/折れないという予想自体をしていなかった。木は背景にすぎなかった。背景だと思っていたものが、とつぜん「折れる」という仕方でわたしの注意を否応なく引きつけている。それが驚きの本当の正体だったようにおもう。別の言い方をすれば、そこに折れるべきものが存在していたのか、という驚きである。「まさかこの松の木が」の〈この〉という指示詞は、この真の驚きを糊塗するために急遽導入されたものなのだろう。

 

災害は、こうした「この」や「背景」の関係をごちゃごちゃにしてしまう。生活のなかに溶け込んでいたあれこれのモノやインフラや生き物や他人が、とつぜん破断してわたしの目の前にさらけだされる。背景のなかに再び戻すこともできず、かといってそこにずっと注意を保持していることも難しい。以前は「背景」が覆い隠してくれていた奇妙な生々しさが視界に入り込んでくる。

 

ところでこうして松の木を眺めたあと、研究室のある校舎に向かっているとき、一頭の青い蝶がわたしの目の前を横切った。いつもどおりの光景だけれど、これは驚きというより不可解に近かった。なぜあの暴風のなかで、蝶が無事だったのだろう。(そして蝶は蝶であって、「この蝶が」と指示することができない。)