しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「病院の過酷な労働環境が諸悪の根源」という解釈は妥当か

東京医科大が入試で女子受験生を減点していた(正確には、多浪で無い男子学生のみ加点していた)ことが暴露された。これは性差別だ、ということはほぼ全てのひとが同意し、東京医科大を非難した。

その直後、医師の長時間労働がこの問題の背景にあることが語られた。女性医師が産休や育休でシフトに「穴を開ける」と、病院の運営が現実的に成り立たない。そこで大学医学部は、女性医師を多く雇用したくないという意図を持つようになる。このような説明だった。

東京医科大による不正の説明も基本的にこの論理だった。系列病院に女性医師が増えすぎると病院の勤務体制が維持できなくなる、そのため女子学生の数を抑える必要があった、という「供述」だった。

 

さらに一歩進むと、諸悪の根源は病院/医師の劣悪な労働環境にあり、受験での性差別はその結果である(結果にすぎない)という議論も見られた。

 

しかしわたしは、この解釈はいろいろと怪しいのではないかとおもう。

 

ひとつには、「女性医師を増やしたくない」という意図は、もっと単純なものだったのではないか。つまり医師社会を男性社会のままにとどめておきたいという意図が根源的なものとして存在しており、勤務体制の維持に支障が出るというのは(それは事実であろうけれど)後付けの理由だったのではないか。

 

もうひとつは、「過酷な労働環境」という所与の問題自体が、性差を強調するように形成されてきたのではないか。

 

労働環境は男性医師にとっても問題である。男性医師も女性医師も過酷な労働環境を望んではいない。しかし過去の医師たちは、この150年、病院という組織を、そこに女性医師が入り込みづらいように構築してきたのではないか。現在の過酷な労働環境は、一方では社会がそれを要請してきたものであるけれども、その要請に対して「身体能力を極限まで酷使して対応する」という答えを選択したのは男性医師たちだった。それは高貴で自己犠牲的な選択だったけれど、同時に、女性医師を排除するのにも好都合な選択だった。

 

わたしがどうしても納得できないのは、「過酷な労働環境」は性差別とは無関係な、いわば社会の側が医師たちに押し付けた無理難題であり、東京医科大はその無理難題に対して「女性医師を抑制する(女子受験生を減点する)」という間違った手段を用いてしまったにすぎない、という解釈である。

医療現場の労働環境の劣悪さの原因が、主に高齢化による際限のない医療ニーズの増大にあることは確かだろう。しかしまた、現在の労働問題が性差別とは無関係なところから成立しているという解釈(=今回の問題の根本は「ジェンダー」ではないという解釈)は、それ自体が性差別の隠蔽を目的とした解釈ではなかろうか。

 

現在の労働環境はそもそも女性医師を排除するという意図を無意識に織り込みながら構築されてきたものであり(女性医師の排除が主目的ではないにしても)、女子受験生の減点という手段は、この側面から半ば自然に生じたものである…という解釈も可能ではないか。

 

つまり、「医療ニーズの増加」→「長時間勤務で対応(非・性差別的選択)」→「医師の労働環境悪化(非ジェンダー的課題)」→「女性医師の抑制という解決策(悪しき選択だが、前項から半ば論理的に導出)」→「女子受験生の減点(性差別的だが、やはり前項からやむを得ず選択)」ではなく

「医療ニーズの増加」→「長時間勤務で対応(性差別的選択)」→「医師の労働環境悪化(ジェンダー的課題)」→「女性医師の抑制という解決策(前項からそのまま導出)」→「女子受験生の減点(前項からそのまま選択)」という構造なのだとおもう。