しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「周知のように」を論文で使うべきか否か

「周知のように」という便利な表現がある。「みなさんもすでによくご存知のように」という意味で、とくに論文では使い勝手が良い。

 

いま自分が書いている論文で、「周知のように」を使っている段落が一箇所だけあった。これを省くかどうか迷っている。

正確には、「周知のように」ではなく、「…ということはよく知られているとおりである」という言い回しなのだけれど、意味としては同じである。

 

「周知のように」が論文で多用されるのはなぜか。この表現は3種類の機能を持っているように思う。

 

ひとつは、読者を選別する機能。たいていの場合、「周知」の「周」が意味するのは人類全員ではなく、ある程度せまい範囲のひとびと、言い換えれば「業界関係者」である。「周知のように、ドロンコニョロンコ体制の成立にもっとも大きな役割を果たしたのはポコンコプンプン党の多数派であるが〜」などと書かれていた場合、ドロンコニョロンコ体制についてそれなりに知っているひとだけが著者の「周知」の範囲として想定されている。言い換えれば、ドロンコニョロンコ体制の盛衰について知らないひとは以後の文章を読んでもあまり理解できないよ、お引き取りください、というメッセージでもある。

 

もうひとつは、ここから新たな知見を論文内で述べますよという目印の機能。たいていの論文は、すでに知られていること、正しいと学会で前提されていることを確認してから、新しい知見をそこに付け加えるという仕方で語られる。

「周知のように、ドロンコニョロンコ体制の成立にもっとも大きな役割を果たしたのはポコンコプンプン党の多数派であるが、同党の有力者であったムリヤリシャニムニ幹事長が水面下で王党派と展開した交渉の内実については史料の不足もありこれまで検討されてこなかった」というように文章が続いた場合、幹事長の交渉について新しい知見をここから述べるのだなということがわかりやすい。

 

この2つの機能はけっきょく重複している。既知のものと未知のものをよりわけ、話の土台を固めるというはたらきになっている。これは論文を書く/読ませるうえで必須の手続きなので、「周知のように」は便利に用いられることになる。

 

ところが第3の機能がある。なんだか難しいことを書いて、相手を面食らわせる、なんだかすごいことが書いてあるらしいぞと怯えさせる機能である。

上2つの機能は、謙虚に言えば「この点についてはすでに議論が尽くされており、ここでは説明を省いて本論に進ませていただきます」ということであるし、傲慢に言えば「このくらい当たり前に知ってるでしょ?」という意味合いにもなる。このエラそうな雰囲気が強くなって独立した機能を果たすようになる。それがこの第3の機能ということになる。

 

書いている当人がそこまで乱暴なことを考えていなくても、調子に乗って使いすぎると、読み手には微妙にイヤなかんじを与えることもある。

だから基本的に「周知のように」は使わないほうが良いと思うのだけれど、上に述べたように便利で的確な機能を持っていることは確かなので、むずかしい。意地を張って絶対に使わないというのも、おろかなことだなとおもう。

 

そのようなわけで、ちょっと迷っております。このような問題は読者諸賢におかれてはすでに周知のことと思われますが…