しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

「いつからわれわれはこうなってしまったのか」

 しばらく砲火を交えた後、意外にも日本軍陣地に白旗が挙った。米兵は重機を前進させておいてから、武器を捨てろと呶鳴った。二、三の小銃、剣、飯盒が投げ出された。しかしその次に弾が来て、五人の米兵が傷ついた。前進した重機が射撃を開始し、十三人の日本兵を殺した。残りは山の奥へ逃げた。

 日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。二〇対一、五〇対一の状況になった時、敵を斃すためには手段は選ばずという考え方は、太平洋戦線の将兵に浸透していた。しかし白旗は戦闘放棄の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。こうでもしなければ反撃の機会が得られない状態に追いつめられた日本兵の心事を想えば胸がつまる。射ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一糸を報いようという闘志は尊重すべきである。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。

 卑怯を忌む観念は戦国武士にもやくざの中にもあるのに、私が今日カイパアンの日本兵の物語をすると、大抵の元兵士は「うまくやりよったな」という。いつからわれわれはこうなってしまったのか。

大岡昇平『レイテ戦記(一)』中公文庫、2018年、186-7頁。

 

 「重機」とは重機関銃のこと。太平洋戦争末期、フィリピン・レイテ島にこもる日本兵のある小部隊が、米兵に対して白旗を揚げる。米兵が投降を促して近づくと日本兵は銃を撃って山の奥へ逃げた。いわば騙し討ちをしたわけだった。

 著者は追いつめられた兵士たちの心情に共感を置きつつ、でもそれはいくらなんでもだめだろう、人間としてやっちゃいかんことだろう、と批判する。「相手もわれわれと同じく徴募された市民である。同じ市民同士の間には、戦争以前の、人間としての良心の問題があると私は考える」(187頁)。戦争は殺し合いである。相手をお互いに人間と見ぬ行為である。それは殺す側の人間も自身の人間性を失ってゆくことである。けれどぎりぎりのところでお互いが人間に戻る余地が確保されていなければならない。そのひとつが白旗というルールである。そのルールを破ることは、人間性の最後の可能性をみずから捨ててしまうことであり、「市民」という身分の価値を放棄してしまうことである。相手もまた市民なのだということを認めなくなったとき、自分も市民でなくなってしまう。