しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

王を讃えてきた

 梅田テアトルで上映中の『バーフバリ 王の凱旋』を見てきた。以下、備忘録として、感じたことを箇条書きに。多少ネタバレになってしまうので、未見の臣民は先に映画館で御真影を奉戴されたい。

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・基本は若き英雄バーフバリ殿下の流離譚。なのだけれど、ひとつ上の世代である国母シヴァガミとカッパッタ叔父さんがそれぞれ悲劇的展開の駆動を担っていて、この2人が映画の背骨を支えている。

・インド映画はとにかく歌と踊りが多いと聞いていたが、本作については特に多いとは感じなかった。ただ、突然に歌と踊りのシーンに入っても全く違和感を覚えないのが不思議だ。ここでダンスが始まるのが当然でしょうという雰囲気に完全に飲まれる。

・「え、重力は…??」というシーンが何度が出てくるが、シヴァ神のご加護なのだろう。そのように納得するのが当然でしょうという雰囲気に完全に飲まれる。

・バーフバリはすごいので、追放された先でうっかり産業革命を起こす。

・「よく考えるのです」→「ヤシの木空挺強襲」の流れはさすがに笑う。しかしシヴァ神のご加護なのだろうと納得できてしまう雰囲気に完全に飲まれる。

 

・クライマックスで主人公と敵役が一対一の戦いを繰り広げる。そこはハリウッド映画に似ているのだけれど、実は最終的な決着を決めるのは、主人公の母が火鉢を頭に載せたまま寺院の周りを3周できるか否かという別の原理。男と男の戦いよりも、女から神への祈りの方が優位にある。主人公も敵役も、この「火鉢担ぎ」の儀式自体を否定しておらず、いずれも相手の骸を祭壇に捧げてやろうと宣言する。

・このとき、黒幕である敵役の父は、橋を燃やして「寺院の周りを周回」の儀式を妨害しようとする。映画の中で、かれだけが儀式の価値そのものを否定していることになる。王権神授説の否定。

 

・バーフバリが英雄であるのは、超人的な戦闘能力を持っているからでも、王族の血を引いているからでもない。それは、力や権力や勇気において劣る一般人をかれが感化し、周囲に小さな英雄を作ってゆくから。映画はここをポイントとして繰り返し強調しているように思った。

 

・よくわからなかったのが「法」と「正義」の関係。「法」はたぶん「ダルマ」という言葉が使われていた。このあたりの知識が全く無いし、原語も文化もわからないので想像なのだけれど、「法」には2種類の意味が使い分けられているように思えた。ひとつは国家を統治するための一般的な「法律」で、もうひとつは道徳規範の根幹であり国家の統治原理そのものであるような「法」。ここには宗教的な意味合いや世界観も含まれているのかもしれない。その二重の意味合いを含む「法」の力の源泉はどこにあるのか。その力を司るのは国母シヴァガミで、彼女は慈愛と冷徹さを兼ね備えた権威ある存在として描かれている。その権威の源泉は宗教的な儀式によるらしい。だがそのシヴァガミのある判断が「正義」から離れているのではないかということになり、物語が大きく転回し始める。だから国母シヴァガミは無謬の存在ではなく、「正義」はときに「法」の上位にあるらしい。じゃあ神様や儀式の価値は限定的なのかというと、そうでもない。おそらく、神々は人間に「法」を定める権威を授けるけれど、その力をうまく運用できるかどうかは人間に任せられている。人間が「法」と「正義」を一致させることができなくなれば、神々は王を見放し、内乱が起きる。内乱の勝者に神々は再度権威を与える。この変転が永遠に繰り返すのが人間の世の中、ということらしい。このあたりの神々と人間の距離感は、トロイア戦争におけるギリシアの神々と人間たちとの距離感とはやや異なる。

 

・主役級の人物たちの表情の演技はあまり派手ではなく、まあ普通。しかし彼らを取り巻く脇役たちの表情がやたらと大げさで、この2種類の表情傾向が混在しているのが面白い。

・ポスターに使われている、バーフバリ殿下と王女様が矢を3本ずつ番える場面はめっちゃかっこいい。ぜひ見るべき。独特のリズム感がある。

戴冠式のシーンなどで王や国家を称える決まり文句が朗唱される。この朗唱文が『マハーバーラタ』を思い出させる雰囲気を帯びていて、すごく良い。

・バーフバリ殿下が映るシーンではずっと長い黒髪がそよそよと風に揺られているのが個人的にツボに入った。英雄ですからね、そよ風ぐらいずっと吹いてますよね。