しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

『エヴァンゲリオン』と『まどか☆マギカ』を結ぶ作品としての『少女革命ウテナ』

少女革命ウテナ』(1997)を初めて鑑賞して衝撃を受けている。今更かよ。

 

以下は単なる印象の範囲を出ないメモ。『ウテナ』は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)と『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)のちょうど中間に位置する作品なのではないか、と思わずにはいられなかった。

 

「中間に位置する」というのは曖昧な言い方になってしまうのだけれど。

この表現で、たとえば『ウテナ』の制作陣が『エヴァ』の影響を受けたのであるとか、『まどマギ』の制作陣が『ウテナ』の影響を受けたのであるとか主張するつもりは全く無い。後発の作品が先行する有名作品から何らかの影響を受けるのは当たり前のこと。同時にまた、この3作品は孤高の作品であって、他からの影響とは無関係に作品それ自体の価値を持っている。

 

こういった狭い意味での「影響」や「パクリ」や「制作スタッフの系列」に関する議論はいったん脇へどけておく。いま考えたいのは、仮に「平成アニメ史」あるいは「平成アニメ思想史」のようなものが構想できるとすれば、実はこの3作品がひとつの隠れた「流れ」をかたちづくっているのではないか、ということ。『エヴァ』が取り出した何かを『ウテナ』が引き継ぎ、最後に『まどマギ』が受け止めた、という流れがあるのではないか。

各作品の作者たちはそのようなことを考えていなかっただろうけれど、あとから振り返ってみると、この3作品をつなげて考えることができるのではないか。

 

で、その「何か」とは何であるのかということになるのだけれど、その肝心なところがいまひとつ自分にもわからない。わからないまま書くなよって話なのですが。

いちおう述べてみると、ひとが「何者かに〈なる〉」(あるいは「なりきれない」)というテーマと、「他者のために生きる」「すると世界が壊れていってしまう」というテーマ。この2テーマが重なり合うような問題設定をこの3作品は追い求めているのではなかろうか、ということ。

 

別の言い方をすれば、それはたまたま選ばれた作品のテーマではなく、時代背景のなかで半ば必然的にこの問題の「流れ」にまとまっていったのではないか。

 

などと妄想を重ねております。

 

(追記)

 大雑把ついでにさらに書いておくと、この「何者かに〈なる〉」「何者か〈である〉」「何者にも〈なれない〉」「何者で〈ありうるのか〉」という問題設定は、ついに宮崎駿富野由悠季といったひとつ上の世代のひとびとが掴まなかったものだった。かれらの作品では、つねに「何を為すか」が問題で、何者であるか、何者に成るのかは全く問題外だった。千尋は実にあっさりと湯屋の女中になり、パズーは空賊になる。作中で登場人物の立場や身分が変わることがあっても、そのこと自体はかれらにとってたいした問題にならない。何者かであることは当然の前提であって、そのうえで何を為すか、どのように為すか、なんのために、誰のために為すのか、ということこそが問題だった。キキは魔女の身分を一時的に失うが、再び魔女に戻ることができるのか、戻ってよいのか、といったことに悩みはしない。魔女であるか否かではなく、目の前のトンボを助けることができるか否かが決定的な問題だった。この点トミノ作品でも同様で、アムロカミーユもMSパイロットであるか否かはたいして問題にしない。自分がニュータイプであるのか、どのようにニュータイプであるべきかといったことすらも問題ではない。NTであるうえで、そこから何を為すかが問題だった。だからカミーユはクワトロを殴る。殴ることで自分が何者になってしまうかといったことは気にしない。まず行為があり、「何者であるか」という問題はあとからついてくる。シャアですら、自分が本当にNTなのか、ダイクンの息子であるにはどうすればよいのかということに悩みつつ、アクシズ落としという行為を決行する。ギンガナム御大将は剣を抜き、ロランはそれに応ずる。

 これに対して、第3新東京市の面々のなんとひ弱なことだろう。エヴァに乗るか否かという行為の問題が、パイロットであるか否か、みんなのもとにいて良いのか否かという立場や存在の問題にずり落ちてしまう。ちょっとサボりながらもパイロットです、といったことは許されない(そういう中途半端な生き方を教えようとしたカジさんは殺されてしまう…)。ウテナは王子様になろうとする。世界を革命することよりも、姫宮との友情関係と、王子様になるという存在問題のほうが重要になる。『輪るピングドラム』の女王様の決まり文句は「何者にもなれないおまえたちに告ぐ」。荻野目苹果ちゃんはプロジェクトMでモモカになろうとする。主人公たちの動向は「運命の列車を乗り換える」という行為に収斂しているようでいて、実は「家族であろうとする」という立場・存在」が最終目標になる。鹿目まどかは「全時代の魔法少女を救う」という行為を決行するけれど、それは「魔法少女になる」「概念になる」という立場・存在の変化と引き換えのことだった。これらの作品では、「するか、しないか」よりも「何かになる、なれない」の問題のほうがはるかに優位にある。