しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

じぶんの身体の大きさがわからない

わかっていないこともないのだけれど、意外とわかってないんだなと最近わかってきた。

 

わたしはからだが大きい。健康診断で身長測定されると、おおむね177〜8センチぐらいの数字が出てくる。ただし横幅は無い。ススキが本とノートを抱えて歩き回っているような格好なのだとおもう。

 

筋肉も脂肪も無いので、自分が大柄な人間であるという実感が無い。

 

けれど他のひとから見た場合、接する場合はどうであろうか。とりわけ女性や子どもの場合、かれらの視界に入ってくるわたしの身体は、やたらと大きな、立ちはだかり覆いかぶさってくるような何かとして現れているのではなかろうか。あるいは暴力を受けた経験を持つひとならば、そこから鋭い視線や言葉や鉄拳がにゅっと飛び出してくるような、ぞよぞよとした砲台として。

 

ところがそうした「見られるサイズ」を携えながらじぶんが歩いているということを、わかっていない。それを常に意識しながら立ち歩きすること、居ること、振る舞うことが難しい。

 

この難しさに気づいたのは、満員電車に乗ることが最近増えたから。駅にはいろいろなサイズの人間がひしめいている。わたしもそのひとりである。ただ、この「いろいろなサイズの人間がいる」ということについて、わりと何も感じていない。それは自分が相対的に大きなサイズの人間であることによるのだろう。つまり、自分が相対的に小さなサイズの人間であれば、単に「いろんなサイズの人間がいる」というだけの理解にはならないだろう。歩きづらさ、恐怖、寄ってくる肩を押し返せないかんじ、見下してくる視線。このような感覚をあまり知ることなく、じぶんの身体を携えて、じぶんの身体で歩いている。