しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

被害者をだまらせる技法・再々 元次官の援軍を務めるひとたち

 財務省の次官がテレビ局の女性記者に猥褻な言動を繰り返していた。女性記者は自身の上司に相談したが取り合ってもらえず、次官とのやりとりの録音を週刊誌に提供して告発した。

 

 数ヶ月前、わたしはジャーナリストの伊藤詩織氏の『Black Box』の読後感想を書いた(被害者をだまらせる技法 ―伊藤詩織『ブラックボックス』感想 - しずかなアンテナ)。本書は、性暴力の「被害者をだまらせる技法」を加害者が存分に駆使するさまを描いている。加害者は、被害者の告発をすり替え、取り合わず、隠蔽し、脅し、無力化し、自身の権力圏に組み込み直そうとする。男性がこの技法を駆使するとき、世間のシステムが一斉にそれに味方する。

 

 今回の財務省(前)次官の事件を外から見ていると、やはりこの「被害者をだまらせる技法」が発揮されているなと感じる。

 特に恐ろしいと思うのは、その技法を用いるのが直接の加害者である次官だけではないということ。たくさんの「味方」が現れる。

 

セクハラ疑惑:麻生財務相「はめられたとの意見ある」 - 毎日新聞

自民・下村氏「週刊誌に売ること自体がある意味で犯罪」:朝日新聞デジタル

長尾敬氏が謝罪。女性議員について「セクハラとは縁遠い方々」と書き込む


 かれらには共通した戦略がある。それは、本質からズレた批判や見解を蔓延させることで、セクシュアル・ハラスメントの告発の打撃力自体を徐々に削いでゆく、ということ。

 告発された次官を擁護して彼の完全無罪を勝ち取ることが彼らの目標ではない(ここに挙げたひとびとも、次官が完全にシロで録音自体が全くゼロから捏造されたものだと思ってはいない)。セクハラはいけないことですねと一般論のように前置きしつつ、微細な事実確認や告発者側の「落ち度」の指摘を繰り返し、告発の本質を次第にぼやけさせ、告発者の体力を削いでゆく。すでに確定した事実でさえ、あたかも議論の残る問題であるかのように扱い、相手の印象を次第に引き下げる。「敵」の本陣そのものを撃破することは無理なので、その代わりに遠くから毒ガス弾を延々撃ち込み続けるようなものだ。

 

 かれらがこの戦略によって守ろうとするのは、告発された次官の立場ではなく、セクシュアル・ハラスメントが可能となる見えない仕組みである。

 かれらがそれを守ろうとするのはなぜか。自分たち自身がセクシュアル・ハラスメントをできなくなってしまうから、ということだけではない。実際にそのひとがセクシュアル・ハラスメントを行っているとは限らない。より根本的な理由は、権力の観念そのものを守るためにある。

 たぶん、だれかを支配することや、権力を勝ち取り、維持するといったことと、それによって保たれる組織や制度がセクシュアル・ハラスメントを行いうることは、かれらにとって不可分なのだ。おそらく多くの保守的な男性は、権力や組織の観念と性的な振る舞いを根本的に分離して構想することができない。「権力を持つ」「組織に属する」ことの一部に、「女性を自由に触れる、誘える、支配できる」ということが常に含まれてしまう。すごく大雑把な言い方をすると「セクハラがある程度可能な会社や組織」の方がイメージしやすいし、作りやすい。セクハラを組織からある程度無くすことは大切だと思っているが、完全に存在しない会社や組織をゼロから構想してみましょうと言われると、途端に困惑してしまう。もし自身が属する社会や組織がそのように変化してしまったなら(それは「権力」の観念自体が大きく変わるということだ)、自分はどうやってその中で生きてゆけばよいのかわからなくなる。

 

 だから、告発された次官の「援軍」が続々と参戦してくるのには、多重の理由がある。告発された次官そのひとを守るため。セクシュアル・ハラスメントが可能となる制度や組織を守るため。自分がセクシュアル・ハラスメントを続ける仕組みを守るため。性と結びついた権力の観念と、それによって成立する組織や社会を守るため。後のものほど、より根源的で、考えを変えることが難しい。

 ほんとうはそこまで難しくないはずなのだけれど。