しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

いろいろな話し方

 被災者支援を23年間されてきた(いまも続けている)方にお会いした。派手なことばを使わず、声を張り上げず、得意げにならず、けれども確かなことを、ぼつぼつ、ぼつぼつと語られた。

 

 聞いたことをすぐにまとめようと思い、地元のよく知っている喫茶店に入った。4人がけのテーブルに、3人の身なりの良い奥様と、立派な体格の若々しい中年男性が座っていた。男性は何やらお金の話をしていた。「ここでの50万円が…こちらには40万円で…ここのところを理解しないとだめ…紹介してゆくことで…この事業モデルが理解できれば次のステップで…4億円の…」といったような。

 かれの語り方。その声。太い声帯から、自信に満ちて語られ、女性たちの視線をくぎ付けにして、ひとかけらの淀みも無く語ってゆく。朗々と。

 

 大学にもこういう話し方をする男性はいる。学内のカフェで、就活セミナーのための?学生の互助グループのようなものを、先輩学生が後輩に勧誘しているときの話し方。あまりに淀み無く、迷い無く、だれかから借りて着込んだ話し方とフレーズをそのまま繰り返し続ける。

 

 喫茶店で奥様方にここだけの儲け話を講義している中年男性(年齢は確かに中年なのだけれど、なんというかいわゆる「中年」ではなく、20代と30代と40代それぞれの精力を全て重ね合わせたような、過度に濃縮された若々しさを想像されたい)は、この、学内カフェの意識ハイエスト系学生の超強化版のようなかんじで、未熟な誘惑者が身にまとう胡散臭さを完全に体内に吸収してしまい、反転させて体外に自信として発散させている。

 かれの声は社交マナーを侵犯する下品な大声ではなく、落ち着いた低さと太さがあり、しかし喫茶店の対角線を挟んだ隅にまで届いている。信頼、善意、新たな挑戦への意欲といったものをじわじわと感じさせる声色。

 

 いろいろな話し方、いろいろな声があるのだとおもった。

 わたしが今の生き方を迷いながらではあれ続けていけば、一人目の方のような、ぼつぼつとつとつといった声に出会うことが多くなり、二人目の方のような、淀み無き声に出会うことは減っていくだろうとおもう。というか、そういう生き方をしようとおもう。そういう生き方をしないひともいるだろうことも理解しておこう。

 

 とりあえず、そんだけの話です。