しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ノモンハン事件がわからない。

 ノモンハン事件がわからない。

 

 満蒙・日ソの不安定な国境に広がっていたある種の「雰囲気」としかいいようのないものが、各当事国の戦略や時勢と称するもの(それは本当に実在したのか?)によって次第に一つの焦点へと強引に高められ、最終的に巨大な局地戦にまで凝縮させられた。歴史の歯車が次第に噛み合い、回りはじめて軍事衝突にまで至ったものであるけれど、そもそもそこに歯車が必要だったのかという疑問がある。

 日本陸軍に限っていえば、目の前の実際の現実に対して国家戦略をどう噛み合わせてゆくのかという問題に取り組んでいたというよりは、むしろ軍事官僚が日々産出するさまざまな書類の文章の機微のなかにもうひとつの〈現実〉を作り出し、その中に棲みついて命令を発し、報告を受け取っていたというかんじがある。現実を誤認して派手な負け戦をしでかしたというよりは、文章のなかに現実を作り、文章のなかで強硬な戦略や「現実的な」対応を立ち上げ、文章のなかで負けを認め、文章のなかで教訓を汲み取り、なにか納得した気分を得る。そのサイクルは現実世界にほとんど開かれておらず、文書の、文章の、表現の入れ替え、記入、抹消のなかに閉じている。そのサイクルを続けるために、官僚機構は次の目標に自らを投げ出してゆく。陸軍省という機構を円滑に日常運行させてゆくために戦争をした、と表現したくなる。

 

そうして、約3ヶ月間の、国境を川にするか川のちょっと東側にするかという問題から拡大した「事件」で、日本・満州ソ連・モンゴルの各国2万人近い兵士が戦死した。

日本軍に限っていえば戦死者8, 440名という数字がある。

 

この8,440名という数字が、わからない。うまくイメージがつかない。

たとえば今年の大阪大学には6,406名の新入生が入学したという。(実際には全員出席してはいないが)4月3日、大阪城ホールに6,406人の若者が集められた。この全員が第23師団に配属され、そのまま専用列車に乗り、舞鶴で船に乗り替え、夏の満州の草原につれてゆかれる。そしてハルハ河のあっちに渡ったりこっちに退いたりしながら、全員死んだとする。それでも8,440名にはまだ2,034人足りない。

 

そういうことが確かに80年前にあったということが、やはり、わからない。