しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

桜の花は何色か

キャンパスの桜は今日が見頃のようだ。昨日は西宮市に行ったが、そこでは緑の葉も強く芽吹き始めているのを目にした。同じ阪神地域といっても、西宮(兵庫県)と大阪では、桜の時期が3−4日ほど違うのかもしれない。

 

朝、満開の桜を眺めながら校舎に向かっていると、桜の花は案外「白い」ものであることに気がついた。桜の花は「さくら色」をしていると思っていた。つまり薄いピンク色を帯びた白色というか、白とピンクのやわらかい中間のような色。

 

ところが、ちょうど総合図書館前の小さな庭園のそばを通りがかったとき、急に満開の桜の花がどんどんと白く見え始めた。朝の光の当たり具合も原因だったのだろう。それを見れば見るほど桜の花は白くなり、周囲の桜の木がみなすべて真っ白であることに気づいた。立派な木々の枝々に白く輝く花弁がもっそりと咲き噴いている光景はひどく奇妙で、そうか桜の花の色とは白色だったのだと初めて気づいた気がした。

 

ふるい人々は桜の花を雪に見立てて和歌を詠んでいる。

み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける(紀友則古今和歌集60)

桜散る花のところは春ながら雪ぞ降りつつ消えがてにする(承均法師・古今和歌集75)

ひどく陳腐な比喩だと思っていたけれど、枝のまわりにこんもりと膨らんでいる白い光の連なりは、たしかに枝に積もった雪のように見える。

いままで確かに桜は「さくら色」だと思っていたのに、いったん「白い」と思うともはや白色にしか見えない。そうすると、これまでの「さくら色」というのは、みんなでよってたかってわたしをだましていた文化的なツクリゴトではないかとも思える。

 

これはこれで奇妙な話で、自分自身がどう思っていようとも、桜の花はわたしに関係なく桜の花でしかないはずである。ところが、桜の花は「さくら色」だと思っていたときは「さくら色」だったが、「白色」だとふと気づいた瞬間から「白色」がいよいよ強く見えてきて、さくら色というものは果たして何であったかわからなくなる。

すると、これまで「さくら色」をわたしに指示してきた文化さえも力を失ったように感じられ、さして珍しくもない満開の桜の木を前にして、全く見知らぬ樹木の花に初めて出会ったかのような、やや心もとない気分になる。するとわたしと白い花の間に漂っていた「慣れ」のヴェールが一気に取り払われ、その木の満開の様子がきわめて生々しく迫ってきて、不気味ささえ感じられる。

 

そのようにして圧倒されながらなお桜の花を眺めて歩いていると、たしかに白いのだけれどじんわりと薄いピンクもそこに改めて生まれてくるというか、目に戻ってくる。となれば、やはり桜は「さくら色」だということが取り戻された気がして安心する。しかし以前よりずっと白みの強い「さくら色」だという認識は保たれている。普段、イラストなどで塗られている「サクラ」はたいそうぎとぎとしたピンクだなとおもう。

 

こういうことが、今朝ありました。