しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

良きフィールドワーカーとは?

 ここ数年、兵庫県西宮市の復興住宅に通っている。阪神大震災で家を失ったひとびとのために建てられた公営住宅。とくにこの一年間は博士論文のための正式の調査のために、わりと頻繁に足を運んだ。わたしがやっているのは、いわゆる「フィールドワーク」である、ということになる。

 

 現地を訪れた帰り道、なんとなく今日はうまくいった、という感覚を得ることがある。なんだか失敗だった、という気持ちに襲われることもある。うまくいった/失敗だったという実感が生まれる条件が何であるのか、なかなかわからない。単に良い「データ」が採取できたとか、計画どおりの調査活動を遂行できたということでは説明しきれない。もっとファジーな部分がある。フィールドワークの場所にうまくフィットして、うまく辞去できたときは、帰り道に興奮と充実がある。落ち込んで帰る日は、うまくはまりこめずに、上滑りしたような日である。

 この「うまくフィットした、はまった」という状態を言語化することが難しい。強いて言えば、”リラックスした異邦人”という状態かもしれない。こちらの肩に力が入っていると、先方もぎこちなくなる。かといって単にリラックスしてずぶずぶ慣れきった状態では、何も見えてこないし、聞こえてこない。緊張していないけれど、アンテナがやわらかく働き続けているという状態が理想かもしれない。しかし自分のような未熟なフィールドワーカーにはそれがなかなか難しい。

 

 良きフィールドワーカーとは、どのような在り方だろうか。

 

 落ち込んで大学に戻ったあと、若手の先生に聞いてみた。かれは少しうーんと頭をひねったあと、「ぼくが知ってる良いフィールドワーカーは、とにかく現場に足繁く通うひとらやったな」と言った。

 

 この「足繁く通う」という定義は、単なる精神論以上のものを含んでいるように思える。というのも、研究のためにある場所を訪問することは、時間とお金と体力と気力を要する。とくに時間の問題は軽視できない。もし毎週フィールドワークに出向くのだとしたら、他の研究や教育活動やバイトや事務作業を残りの6日で片付けなければならない。つまり足繁く通うための態勢を整え、時間を捻出しなければならない。態勢を整えるという点には、お金の問題もつながってくる。研究計画を立て、予算を獲得するというプロセスが不可欠のものになる。

 ざっくり言えば研究を続ける態勢(環境)を維持する努力が求められる。これは根性論だけでは達成できない。良きフィールドワーカーとは、足繁く通うための態勢を計画的に維持できるひとのことである。

 

 とはいえこれは前提条件の話なので、精神的な部分も考えてみる。足繁く通うことができるためには、そこを訪問するための何らかの理由が必要である。

 フィールドワークの場所がそもそも自分の職場でもあるというケースは珍しくない(今年、臨床哲学研究室から出された修士論文のひとつがこのケースで、プロの訪問看護師である社会人院生が自身の看護体験を改めて研究するものだった)。自身の家族の育児や介護を題材にする場合もこれに近い。

 ほかに、なんらかの依頼や約束や、あるいは教員からの指令で、調査先の訪問日程が半ば強制的に決定されるというケースが考えられる。

 こうしたケースと違い、訪問の日時や頻度をフィールドワーカー自身が決めることができるような場合(わたしはこれだ)、「足繁く通う」ためにはそれなりの動機が必要になる。フィールドワークの場所を訪れる動機は単純ではない。特にフィールドワークの初期には、信頼関係を作るため、関係を維持するため、という目的が中心になる。あのひとに会いたいな、という気持ちが心を占めているときもある。ちょっと書類を届けるためだけに立ち寄るという日もある。

 いろいろな動機があるけれど、もし核となるものがあるとすれば、それは好奇心ではないかとおもう。これはどうなっているんだろう、ここのひとたちは生活や生業をどうやって営んでいるのだろう、ここでかつて何が起きていたのだろう、という好奇心。

 

 ところが好奇心には鮮度があって、何度か通っているうちにぼやけてくる。最初に抱いた好奇心だけでゴリゴリとフィールドワークを続けることはできない。強引に「初心忘るべからず」と言いはって調査を続けようとすると、さらに鮮度が落ちてゆく。

 おそらく、好奇心を更新してゆくということが大切なのだろう。現地で何かに気づくと、知識が増えて満足するよりも、新たに知りたいことや試したいことが生まれる。初心の好奇心が上書きや変更されるのではなく、元からの好奇心が具体化・細分化されつつ新たなエネルギーを得る。フィールドに細かい根や蔓が伸びてゆく。良きフィールドワーカーとは、好奇心の良き更新を保ちながら、その更新サイクル自体を目的として足繁くその場所に通えるひとのことである。

 

 しかしまた、「気づく」「発見する」ということにこだわり過ぎていると、逆に感受性が縮退してゆくということがある。フィールドワーカーが眼をキョロキョロさせすぎていると、なにより、その場所でもともと生きているひとたちが緊張してしまう。わたしは何度となくこの失敗を犯した。そこで、冒頭で述べた”リラックスした異邦人”という状態が必要だということになる。しかしこれがまた難しいのだ、ということで問いは始点に戻ってしまう。

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(写真は今年1月17日、愛知県豊橋市で行われた震災の追悼集会を訪問したときの様子)