しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

研究者であることと、当事者であること

標題のことについて、さいきん、立て続けに話を聞くことがあった。

 

とくに社会科学系の研究者は、自分の研究フィールドと、自分自身の「出自」「立場」が重なってしまう、ということがある。

たとえば、自身も障害者である人が障害者の雇用について研究する、ゲイであるひとがLGBT言説について、肉親を癌で喪ったひとがグリーフケアについて、祖父が被爆者であるひとが被爆体験について、在日コリアンであるひとが外国人差別について研究する…といった具合に。

最近では、「当事者性」などと呼ばれる。

 

自分が研究分野の当事者であるということは、ひとつの強みではある。フィールドで観察されるさまざまな出来事の意味を、自分自身の歴史や経験を元に、細やかに探りとることができるからだ。

 

しかし、当事者性がなければ研究者になれない、研究を続けていけない、ということにはならないだろう。それにまた、ある場面での当事者であるひとが研究者を志すとき、必ずその分野の研究者にならなければならない、という決まりもない。

 

ところが、あくまで自分の見聞きした狭い範囲のことだけれども、当事者性を帯びていることが研究者になるためにとても重要だ、といった言説があるらしい。表立ってそのように主張する人がいるというよりは、ぼんやりとした雰囲気が感じられる場面があるらしい。

 

ここには、認識主体としての当事者性という問題(=当事者だからこそ理解できること、理解しづらいことがあるということ)と、物事に取り組む人に対して「ストーリー」を過剰に求めるという悪習が混在しているようにおもえる。

 

つまり、ゲイがゲイ文化について、障害者が障害について、外国人が外国人差別について研究することは「ストーリーが成立している」と受け取られるが、強い当事者性を持たないひとが特定のフィールドに入ると「ストーリーが足りない」とみなされる。ここでのストーリーとは、研究対象と自身の結びつきの説明の仕方である。この結びつきが、研究に取り組むためのストーリーが「弱い」と、研究を続けていくことができない、という。

 

しかし、そこまでストーリーが必要だろうか、とおもう。たしかに、おそらく研究にかぎらず、人生の営みの要所要所で自分でストーリーを確認せざるをえない時期がある。しかしそれはあくまで自分自身での確認である。他人に、おまえのストーリーはよくわからないぞと迫ることは、乱暴なことだとおもう。

 

わたし自身の体験をすこし書く。わたしの研究フィールドは阪神淡路大震災である。そのとき建てられた「復興公営住宅」と、「震災死者の追悼」という2つの場所が、具体的な研究テーマになりつつある。

あちこちうろうろしていると、あなたはその震災の被災者なのですか、と聞かれることがたまにある。あるいは、その災害で友人や家族を喪ったのか、とやや遠回しに聞かれることもある。

これは答えに窮する。話し始めると長くなるけれど、まず「被災者とは誰のことか」という問題がある。事実を先に言っておくと、わたし自身は家屋の損壊や近親者の死や怪我といったことはさいわいなかった。したがって客観的には被災者ではない。そして主観的にも、自分自身を被災者と定義することは絶対にできない。自分よりヒドイ被害にあったひとがたくさんいて、そのひとたちこそ被災者とみなされるべきだと思うからだ(しかしまた、そうしたひとは、他人からいきなり被災者呼ばわりされることを嫌う。ここらへんもセンシティブな問題になる)。とはいえ、この震災はわたしの街で起きたことであって、けっして無関係ではない。

 

そういうわけで、「被災者なんですか?」と聞かれると。「被災者ではないんですけど、えーっと…」とぶつぶつ話し始めることになる。

 

不道徳な喩えだけれど、もしわたしの近親者が震災で亡くなっていたとしたら、そのように説明したとしたら、この「ストーリー」に多くのひとがすんなり「納得」するだろう。そして、それ以上なにも考えないだろう。

 

この納得は、当事者性ということと同じではない。そしてそのように納得したひとは、あなたが研究者になるにあたっておそらくクリティカルな助けを与えはしはしない。

 

たぶん本当の当事者性とは、自身が何度も確認して反芻し、疑いと信念が交互に地層となって重なってゆくような、そうした自分自身へのストーリーの繊細さや苦しさのもとで育ってゆくものなのだろう。それは当人にも他人にもなかなか読み取りづらいし、「障害者」「外国人」「ゲイ」「被災者」といったカテゴリの当てはめから即座に生まれてくるものではない。

 

文章が長くなってしまった。研究者になるためにはわかりやすいストーリーが必要だという考えは正しくない。また、当事者として研究している人も、おそらくそうした安易なストーリーだけで立っているのではない。以上のように言いたいとおもう。えらそうですみません。

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 (12/8 追記) 「本当の当事者性とは…」と書いたけれど、この表現もどこかずれているような気がする。ある場面においては、当事者性にニセモノもホンモノもあるまい。考えが足りないまま書いてしまったので、もうすこし考え直すことにします。