しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

蜘蛛の巣が撮れない

面白いものを見つけたらiPhoneのカメラで写真を撮る。

朝のキャンパスの坂道にいたカメとか、部屋にいたバッタとか、マンションの階段にいたトカゲとか、かたつむりとか、たい焼きとか、弟の部屋で飼われている水棲のカメとか。

 

今朝は通学路にたいそう立派な蜘蛛の巣が張られてあって、それは高架橋のように坂道の上に覆いかぶさって交差していた。たいへんよろこばしいことであると思ってiPhoneのカメラを向けてみるが、画面には蜘蛛の巣がほとんど写り込んでこない。背後の日光や樹木の色が、蜘蛛の糸の細さに比して強すぎるのかもしれない。こうなるとiPhoneを前後に動かしてみても無理で、プロの昆虫写真家が大掛かりなレンズやカメラを用いるのも(それらの仕組みは知らないけれども)とりあえず納得がゆく。

 

視線をiPhoneの画面から蜘蛛の巣そのものに向けかえるとたしかにくっきりとそれはそこにある。わたしが見えているものをこの機械は映さない。目の前わずか30センチほどの近さにあるものが。このことが、おもしろいなとおもう。

 

わたしは目の前の蜘蛛の巣を捉えているけれど、iPhoneやカメラは「捉える」ということをしてくれない。人間はたいていそのようにしていて、それ以外のありかたがほとんどない。

そこにそれがまさしくそれとして存在している、という心身の姿勢が人間にはある。なにかを捉えていたり捉えていなかったりすることと、心身がそれに対応した姿勢にあることは、本質的に等価なことなのだろう。つまり、心身のある状態や機能が先に存在していて、その能力がわたしの内側から外界に見えない触手を伸ばし、対象物を探り取り、ようやく掴み取るのではない。姿勢と対象は別個のものではなくて、不可分のことなのだとおもう。強いていえば、リズムとリズム、波形と波形の共振が最初にあって、そこからスペクトルが徐々に分解されてゆく。ところが分解されて現れたものを最初のものと誤認してしまう。認識の「両端」に見るものと見られるものを対置して、それぞれの連続性や恒久性(物体の、あるいは身体や精神の)をごりごりと切削しようとしてしまう。

その方向で技術を進めてゆけば、蜘蛛の巣を撮影することのできるスマートフォンも発明できるかもしれない。けれど、「蜘蛛の巣が撮影できないな」という発見のなかに潜んでいるいろいろな共振なノイズを受け止め直すことは、できなくなってしまう。そういう気がする。

話が飛躍しすぎた。