しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

「聞こえること」の解像度(3)意味の広がりとまとまり

 聞こえるということを何度か考えなおしてた。

 ひとつの音にはひとつの音源がかならず対応する、と以前書いた。

「聞こえること」の解像度 - しずかなアンテナ

「聞こえること」の解像度(2) 音と時間 - しずかなアンテナ

 

 ひとつの音源には、それがひとつの何かである、というひとつの意味が対応する。建設現場から、カン、カン、カン、という音がする。ひとつの「カン!」は、大工さんがハンマーを振るっている音で、たぶんハンマーと釘の頭からその音は生まれている。「カン!」というひとつの音は、「槌音」というひとつの意味を持っている。

 けれども、しずかにその音を聞いていると、そこには単一の意味だけではなくて、いろいろな広がりがある。ハンマーの材質……鉄ではなく木かもしれない。打ち込むとき、少し力を緩めている……力任せに叩くと資材を痛めてしまうのかもしれない。空気が乾燥しているかんじ。つまり、いろいろな意味を「聞き取る」ことができる。槌音だと片付ければ槌音だけで済んでしまうし、じっくり聞いてみればいろいろな情報が取り出されてくる。

 意味の聞き取りには、聞く側の経験も影響している。大工の親方は、おなじ「槌音」から、そのひとの技能の良し悪しや体調を「聞き分ける」かもしれない。わたしにとっては単なる「カラスの鳴き声」と聞こえている音を、鳥類の研究者はハシブトガラスハシボソガラスか聞き分ける。

 このように、ひとつの音にはいろいろな意味の広がりが内包されている。とはいえ、異なる音程がコードのように別個に組み込まれているわけではない。「ハンマーを打ち下ろす直前に力を少し抜くかんじ」と、「金属と金属がぶつかっているというかんじ」は、別々の周波数で分離して聞こえてくるのではない。それは依然として確かにひとつの音で、多様だけれどもひとつのまとまった意味(「槌音」)として現れている。