しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

「聞こえること」の解像度(2) 音と時間

 先日、音について考えていた。(「聞こえること」の解像度 - しずかなアンテナ))

 ひとつの音にはひとつの音源が対応する、といったことを書いた。けれども、そのあともういちど考えてみると、「ひとつの音」とはなんだろう、ということが意外とわからない。

 上記エントリで例に用いた、大工さんの槌音とか、机を叩く音とか、猫の鳴き声などはわかりやすい。「トン」とか「カン」とか「にゃー」とか、ひとつのまとまりとして捉えやすい。それを〈ひとつ〉として聞くことができるのは、なによりそれが聞こえる時間が短く、「聞こえ始め」から「音の消滅」までを〈ひとつ〉として受け取ることができるからだ。

 ところが、そうした明瞭な「始まり」「終わり」の無いような音もある。洗面台で顔を洗っているとき、耳元で水が蛇口から落ちる音がずっと聞こえていた。あの「ジャーー」という音は、「ぽん!」や「ゴトリ」のように一撃ではなくて、終わりのない「ジャーー」である。本当は「ー」(伸ばし棒)が顔を洗っているあいだずっと伸びているわけだから、仮に書くとすれば「じゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」が正しい。

 この際限の無い「ジャー…」もまた、わたしはひとつの音として聞いているはずだけれど、「ぽん!」の際のような「音の終端」を受け取ることができない。わたしがカランをひねって水を止めたとき、ようやく音は消える。けれどその音が消えるということは、〈ひとつの音〉がそこでやっと完成するというのではない。水道代がもったいないから水は早めに止めるけれど、たとえば滝の音や雨の音といったことは、「ここ」というところで切り上げられることがない。〈ひとつの音〉であるけれど、それを〈ひとつ〉として捉えようとするほど、時間の先に逃げていってしまう。〈ひとつ〉として聞くということは、なんなのか。

 

 水道の音や、滝や雨の音は、時間のなかで区切るということができない。ただし、ひとつの音源から出ているものとしては区切ることができる。これに対して、環境音や、どことなくざわざわしたかんじとか、背景音といった音は、時間の上でも音源のうえでも区切ることができない。都会の人通りの激しいところにいると、車のエンジン音や商店の呼び込みやすれ違うひとの話し声などが、〈ひとつの音〉として聞こえてくることがある。けれどもその「背後」には、どうにもざわざわした、都会のかんじとしか言いようのない音の網目が広がっている。エンジン音や呼び込みの声は、その背景からにゅっと前景に出てくる。このとき、背景のざわざわそのものを〈ひとつの音〉として捉えることは難しい。