しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ

 THE ORIGIN4部作がAmazon Primeに入っていたので、Iから見始めている。

 冒頭、ルウム戦役のシーンが描かれる。ティアンムの先鋒艦隊の艦砲射撃で一方的に叩かれる囮役のムサイ戦隊。次いでレビルの本隊を襲うモビルスーツたち。マゼラン5隻を叩き落とすシャアと、黒い三連星

 マゼランとサラミスのミサイルや対空機銃、シャアザクのぐりぐりとした動きがCGで美麗に描かれる。迫力がある。

 

 けれど、これは致命的なことではなかったかとおもうのだ。ORIGINはルウム戦役を映像化してしまった。でも、それは大いなる過ちだったのではないか。描き方が不十分だった、ということではない。どのような丁寧な描き方であれ、とりわけ映像でルウムを描くということ自体が宇宙世紀サーガにおける禁忌だったのではないか。ルウムは描いちゃいけないんだ。

 

 なぜなら、ルウム戦役は伝説だからだ。シャアが通常の3倍のスピードで5隻の戦艦を瞬くまに沈め、一個師団の戦力に匹敵する黒い三連星がレビル大将を捕虜とした。シン・マツナガが、ジョニー・ライデンが、ランバ・ラル隊がそこにいた。ジオンの精鋭MS部隊が数倍の戦力比をひっくり返して鈍足の地球連邦艦隊を殲滅し、以後連邦軍は艦隊保全主義を取ってユトランド沖海戦後のドイツ帝国海軍のごとくルナツーに逼塞した。トラファルガー海戦日本海海戦、あるいはカンネーの二重包囲をも超える、戦史上空前絶後の勝利だった。

 それはすぐに作品世界内で伝説となった。だからパウロ艦長は赤い彗星だと知ってすぐに逃げろと叫び、ジーン(いや、スレンダーだっけ?)は「シャア少佐だって手柄を立てて出世したのだから」とガンダムを襲う。宇宙世紀サーガの序盤のひとびとの行動は、大局的にも個人心理においてもルウム伝説への応答によって成立している。そしてこの行動原理≒ジオン軍のMSは雑魚じゃねえという共通認識が、その後のジオン軍の個性的なキャラの魅力と、ガンダムアムロの強さを理解するうえでのベースとなり、アムロとシャアの物語へつながってゆく。

 つまり作品世界内のルウム伝説を視聴者もまたいつのまにか共有している。一年戦争の物語全体がコロニー落としルウム戦役インパクトのうえに成立している。視聴者の想像力もそこに接続する。連邦軍ジオン軍将兵や市民がルウム戦役に対してイメージを持つのと同様に、視聴者もルウム戦役に対して独特のイメージを保つ。そして、そのためには、ルウム戦役が描かれてはならない、ということが必須だったのだ。見たことがないから伝説になる。1stガンダムでも『ギレンの野望』シリーズでも、ルウム戦役の少し後から物語が始まっていた。ルウム戦役コロニー落としを体験していないことが、作中世界の人物と視聴者が共有する蝶番だった。あるいは、視聴者はルウム戦役をシャアやティアンムの立場で想像することができた。想像によって、視聴者はそれらの人物と自身を一体化することができた。想像の中では連邦艦隊を翻弄するエースパイロットになることが許されていた。

 ところが、ルウム戦役を実際に描いてしまうことで、もはや伝説が伝説でなくなってしまう。想像の領域であった場所が、それなりにカッコイイ具体的なCGに置き換えられてしまう。ああ、シャアはなるほどこうやってマゼランを本当に撃破したんだな、と納得させられてしまう。すごいね、まあそんなもんだよね、というかんじになる。伝説からヴェールが剥ぎ取られ、歴史の始点がのっぺりとした実在に転化する。ルウムの死闘の中で誰が何をしていたのかが全て明確になり、後は際限無く細部を書き込んでゆくほかない。それは宇宙世紀サーガを豊かに補強するように見えて、実のところ作品世界全体の脈動をより萎ませる結果にしかならない。ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ。

 この批判を映像版ORIGINの作り手に向けるとすれば、かれらはルウム戦役というガノタの聖域に踏み込んでしまった、ということかもしれない。一週間戦争を描かないということが、宇宙世紀サーガの作り手に求められるべき一種の「慎み深さ」だった。ガノタルウム戦役を妄想する。妄想する権利は誰にでもある。しかしサーガの公的な描き手となるとき、そのオタク的妄想はいったんスイッチ・オフしなければならなかった。しかし彼らはルウム戦役を(そう長いシーンではないにしろ)映像化してしまった。それは、マニアと創作者の間に引かれるべきラインを踏み越えてしまったということを意味する。ようするにオタクの感覚のままで公的な作品を作ってしまった。*1 それはそれで一つのやり方かもしれないけれど、オタクがオタクのまま作品を作ってしまうと肝心の創造力が根本的なところでどこか欠けてしまうのでは、と思う。そういう意味でもやっぱり、ルウム戦役は描いちゃいけなかったんだよ。

 

 

*1:ちなみに、このラインを踏み越えないギリギリのところでフラフラしながら作品を作れてしまうのが庵野サンだと思う。