しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

RightとLeftが無い時代

 英語では右をRight、左をLeftと言う。ところでRightには「正しい」「まっすぐな」という意味もある。

 Rightは古い英語ではrihtやrehtと言い、古フリジア語riuchtや古オランダ語rehtなどと同根であるという。さらに語源をたどると「まっすぐに進む」という意味の印欧語にゆきつくという。

 ところでこうしたrihtやrehtといった語の本来の意味は「正しい」「権利がある」「強い」などで、方向としての「右」の意味は後から加わったものらしい。たぶん、右手のことを「正しい方の手」「強い方の手」、左手のことを「間違いの手」「弱い方の手」という感覚で呼ぶといったことがあったのだろう。まず「正しい」「まっすぐな」「強い」という意味の方が先にあって、それを後から方向としての「右」に当てはめた、ということなのだろう(大雑把すぎて間違っているかもしれないけれど)。

 

 人間にとって、「正しい」「悪い」はきわめて大切で根本的なことばである。世界の歴史の中のたぶん全ての言語は「正しい」「悪い」と翻訳できる語彙をそれぞれ持つだろう。他方、「右」「左」も同様に根本的なことばである。右と左ということは、人間の身体に深く根付いている。

 自分は方向としての「左右」が基本で、そこから派生して「正しい」「悪い」の意味が加わったのだと思いこんでいた。つまり(あくまで右利き基準だが)右手=強い・正しい、左手=弱い・間違う、という感覚が先にあって、それゆえ「正しい」ことを「右なこと」と言うようになったのだろう、と。

 ところがどうも英語のright/leftについては語源の関係が逆で、「正しい」の意味が先で、後から「右」を表現するために「正しい」の語を当てはめたということらしい。

 とすると、そのように当てはめる以前は、右と左ということばが彼らには無かった、ということになる。デフォルメ化して言えば、ある時期までは左と右をことばできっちり区別する必要を感じていなかったのが、ある時期からは「こっちの、よくスプーンを持つ方の手を「正しい方の手」と呼ぶことにしよう」という語感が成立した。

 もちろん左右をそのように呼ぶようになる以前も、かれらに右と左の感覚そのものはあっただろう。右側にあるものを手に取るときは右手を使うし、左目が痒ければ左目を掻いた。ただ、その「2つの方向」に特別な語を充てる必要性は持っていなかった。

 現代ではそれは不可能である。たとえば電話口やメールで道案内をするとき、「◯◯駅の2番出口を出て、すぐ右に曲がってから30メートルほど歩きますと左手に弊社の看板が見えるはずです」と言う。「左右」の意味の共有無しにこれを説明することは難しい(東西南北で示すという手段はあるけれど)。けれどこれは、「直接顔を合わせていない相手に自分の所在地を伝達する」という、きわめて複雑な社会における必要性である。より古い、コンパクトな社会では、左右という言葉の共有はそこまで必要とされないかもしれない。道案内したければ「ああ、あっちのほうだよ」と指差せばわかる。あるいは直接ついて行って教えてあげるのかもしれない。

 きちんとした言語学や語源学からするとテキトウな考えに映るかもしれないけれど、とりあえず、そういう想像をした。