しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

犬の眠り

 犬の眠りは人間に比べて浅いなと思う。本当のところは犬になってみないとわからないけれど、仮にわたしが犬になっても、犬にとっては犬の眠りしか無いので、それが浅いか深いか自分では判断つかないだろう。けっきょくわからないけれど、実家で飼っている犬を外から観察する限りでは、人間よりもずっと浅い眠りであるように見える。目は眠っているけれど、耳は起きている、というような。

 野外で生活する動物にとって睡眠は無防備な状態である。だから人間のようにぐっすり深く眠るわけにはいかないのだろう。すぐ入眠して、すぐ目覚める。なるほど人間のように深くいびきをかいたり、夢を見ているように見えるときもある。しかしそれはあくまで例外で、浅い眠りを断続的に繰り返すのが犬の眠りの基本である。

 

 むしろ長時間の深い眠りを毎晩繰り返す人間のほうが特殊なのだろう。人間が深い眠りを必要とするのは、たぶん覚醒の明晰さの深さと対応している。人間の覚醒時の意識はとても複雑である。現在の世界、過去の記憶と未来への展望、反省の構造を備えている。つまりある独特の深みがある。眠りの深さは、この覚醒時の意識の深さと同等であるのかもしれない。さらに、ぐっすり寝ていても身の安全が保障される住居や社会制度や家族制度がこの生物学的要求に付随する。昼と夜、光と闇、目覚めと眠り、ソトとウチ、緊張と安心、といったペアが人間の生活の在り方を強く規定している。もちろん犬にも昼と夜はあるけれど、その対照性は人間よりもずっと曖昧なのだろう。

 人間の場合、覚醒と睡眠、昼と夜の対比に、生と死の対比が重ね合わされる。死は眠りに近い何かであり、死は夜の国への訪問である。深い眠りからの目覚めは、ときに死からの蘇生に近いものとして感じ取られる。ひどく疲れたときに偶然体験する、単にぐっすりと眠ったというのではない、根本的な深い眠りから突然めざめたときの、なにかが蘇り、再生したというあの感覚。自分ではないが自分が受け持っている、深く暗い領域から突如として意識が更世する。入眠、意識の途絶、覚醒による回復、という一連の流れは、単なる脳の状態の遷移ではなく、人間の生活にとってとても大切な断絶と再生の体験にちがいない。死への恐怖と受容も、その反復をベースにして把握されている。

 犬の眠りにはそれが無い。たぶん、「夢うつつ」の状態と、「夢うつつというわけではない状態」の間を曖昧に行ったり来たりしているのだろう。するともしかしたら、死ぬことについても犬は人間よりずっと違ったかたちで把握しているのかもしれない。つまりじぶんの死を人間よりも幾分おだやかな仕方で理解しているのかもしれない。