しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

「嫌なのです」を聞くということ

 嫌なのですと言っている人がいるなら、なぜ嫌なのか、とりあえずじっくり話を聞いてみるのも良いのではないか。聞いて、聞いて、聞き尽くして、相手の思考のさまざまな層をめくっているうち、いつのまにか自分自身の思考の層が開示されてしまい、自分の心理的抵抗の核心と、相手の主張の根幹部分がちょうどお互いに解錠しあう、という瞬間も、意外と無いことはない。

 

 「クソフェミ」や「まなざし村」や「村民」といったワードを使い慣れるよりも、そして正誤善悪の判断を効率良く下すよりも、「なぜ嫌なのか」を聞き取る癖を付けたほうがいいんじゃないか、とおもう。

 このように主張するのは、大きく分けて3つの理由がある。第一に、「なぜ嫌なのか」をじっくり聴くことは、人間の理性や正義に直結しているということ。本当に正しいことは、いずれの意見が理性的であるかを即座に裁定しようとする立場からはたいてい見落とされてしまう。人間の理性の役割は、たぶん、他者のことばが非理性的であると却下することではなく、はじめは非理性的であると思えたようなことばの奥から、隠れた真実を探りとることにある(実際、「隠して」いたのは自分自身の側なのだけれど)。相手の言い分を1,2分聞いただけで「おまえの言っていることは無茶苦茶だ」と却下するような態度は、そのひとの世界観を守るけれども、正義についての信念を更新することはない。

 第二に、「なぜ嫌なのか」を聞き取る癖を付けていかないと、意外と世の中の変化から取り残される、ということ。近代社会の大きな変動のいくつかは「それは本当に嫌だからやめてくれ」という声を原動力として生じてきた。世の中の安全は、それが声になる前に殴りつける、あるいはそうした声がささやかれる場所を監獄や取調室に限定する、あるいは「〜〜主義」「〜〜イズム」というイデオロギーとして性急にラベル付けすることで保たれてきた。「なぜ嫌なのか」を聞いて理解しようとする態度を身につけることで、あなたは「抑圧に加担していた多数派」から「声を上げ始めた弱者に味方する意識高い市民」へとスムーズにクラスチェンジすることができる。その機会を逃すと、「頑迷な差別主義者」にクラスチェンジさせられてしまう。

 第三に、「なぜ嫌なのか」を聞くことを避ける習性を身に着けてしまうと、万が一何らかのハラスメントで訴えられたとき、事態を確実に泥沼化させる選択肢へと突き進んでしまうよ、ということ。