しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

死ぬことを考える。

  わたしが死ぬとき、それは今のことではなくて、わずかに未来のことである。その未来とは、もしかしたらこのエントリの「公開する」ボタンを押す直前かもしれないし、あるいは数秒後のことかもしれないけれど、とにかく「今」ではない。

 未来は、じぶんの体から離れたところにある。数時間後、数日後、数年後、あるいは死の直前の「じぶんの体」を想像することはできる。その「未来の体」は、おそらく老いや病や諸々の変化を引き受けている。けれども、その未来の体は想像されたもので、わたしの、いまのこの体からふわりと離れている。

 

 ところで、死ぬのはまさしくこの体である。それとも、死ぬのは精神や脳や魂や実存や関係や自己や存在や人格なのだろうか。そうしたもろもろの概念においても、たしかにわたしは死ぬ。けれどそれと同時に、なにより死ぬのは、この体である。それはたとえば、病によってさまざまな内蔵の機能が劣化した体であり、事故や事件によって激しく裂かれた体であり、水の底で大気とのつながりを失った体である。そのあと、腐敗し、焼かれ、灰にされ、埋められるか、もしくは長期間放置され、分解される。いずれの場合もわたしの体で起きる。

 しかしそれらの過程が起きるのは、「今」ではなく、未来のどこかにおいてである。病や老いや怪我によって崩落するのはまさしく「この」体だけれど、そう言うときの「この」には、未来(の体)はかなり弱い程度でしか含まれていない。

 

 死ぬことは、とても未知の理念である。ところがそうは言っても、わたしはそれなりの仕方で自分の死を既知のものとしている。問題は既知と未知の日常生活的な定義が死については使えないだろう、ということにある。ある未知のものが既知になるとは、そのあるものが自分に近づいて、とてもはっきりとしたかたちを自分に示したのち、自分から途切れてしまう、ということである。地面に金属質の小さな丸いものが落ちている。なんだろうと近づいてゆく。わたしはそれがコインであるかもしれないという予期を描いている。近づくことによってその予期が次第に肉付けされてゆく。ついにコインであるとわかる。接近はそこで打ち切られてしまう。「あれは何なのだろう」というわたしの関心は消失して、あとはそれをポケットに入れるか、無視して通り過ぎてしまう。地面に置かれたままでも、ポケットの中に入っても、コインはすでにわたしから途切れている。

 ところが、死ぬことは、このような仕方で既知になるということはない。