しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

これが最後の朝だったら

 朝、目が覚めたあとすぐ、もし仮にこの朝がじぶんの人生のさいごの朝であったならどうだろうと考えることがある。

 布団から出ないまま、壁を見つめる。曇り空を透過してきた光を壁紙が受け取って陰影を強めてゆくのをみる。いろいろな匂いがする。車のエンジン音、鳥の鳴き声。この朝が最後で、次はないとしたら。

 別に大病を患っているわけでも、死刑執行を待っている身でもないし、自殺を考えているわけでもないし、戦地にいるわけでもない。しかしとにかく、「さいごの朝」がいつか来ることは確かである。

 

 考えてみてわかることがいくつかある。第一に、「朝」そのものに取り立てて大きな変化は起きようがないということ。じぶんがその日のうちに死ぬのだとしても、自動車は走っているし、鳥は鳴いている。雨か曇りか晴れか決められないけれど、とにかくなんらかの気候があるだろう。わたしの最後の朝だからといって、鳥が鳴かなくなったり、ゴミ収集車が活動を自粛するといったことは起こりようがない。

 第二に、これが最後の朝だったらと仮定して朝を過ごしてみても、「とにかく生を大切に、きょう一日をがんばって生きよう」といった殊勝な気持ちにはあまりならないということ。そういう気持ちがほのかに湧くことも無いではない。けれど、実際に朝の身支度を始めると、そんな気持ちはすぐにどこかへ消えてしまう。「一日一日を大切に」という心構えを造ることを目的として「これが最後の朝だったら」と考える、という人もいるかもしれない。けれど自分にはその趣味は無い。

 第三に、時間はそのまま流れてゆく、ということである。なるほど、最後の朝かもしれないと仮定して考えることで、なにか生の輝きのようなものを実感しても良いかもしれない。一秒一秒が貴重なものに実感されるかもしれない。かといって、そのような刻々とした「生の実感の更新」も、自分の死を順延してくれないということ。死へのカウントダウンが始まっていると想定しても、その一秒ずつをけっこう持て余してしまう。ただ、時間が過ぎる。

 

 現実問題として、病死や老衰死といった「死の接近を予感しうる」状況でも、これが自分の最後の朝だと自覚できるケースはそう多くないだろう。意識が明瞭に保たれていない状況のほうが多いかもしれない。もし運良く(あるいは運悪く?)、どうやらこれが最後の朝らしい、と直観したとき、どのような感情が起こるのだろうか。それは恐怖そのものかもしれないし、苦痛からの解放を静かに喜ぶかもしれない。世界との別れをいまいちど悲しむのかもしれないし、それら全てを過ぎ去って、どこか澄んだ気分になるのかもしれない。そうした諸々の感情は自分の臨終を自分に対して演出するけれども、それによって何かを得たり失ったりするのも結局じぶん一人(あるいは周囲の少ない人間)であって、鳥が鳴いたりアナウンサーが朝のニュース原稿を読み上げることに何らの影響も与えない。それは、気持ちのよいことである。

 

 などなど考えたあと、飽きて起床する。そのあたりでようやく、これは「もし」ではなく、ほんとうにこれが自分の最後の朝なのかもしれない、ということに気づく。気づくというのも変な表現だけれど、不慮の事故や事件や災害で死ぬことだって当然ありうるわけで、「これが最後の朝だと仮定する」と考えているときの「仮定」が仮定であることには実は何の根拠もない。ハイデガーのdas Manの話をそのままなぞることになるけれど、「いつかは死ぬと思っているけれど、さしあたり今ではない」という変な信念を持っていて、その信念の上に上記の想像を仮構していた。

 そこで、それが「もし」であるという保証はどこにも無いぞと決めてから、再度、「これが最後の朝だとして」と考えてみるけれど、すると途端にリアリティが無くなってしまう。なんとなくぞわっとしたかんじ、あるいは、どことなく悦ばしいかんじが生まれるけれど、最初のようにはうまくいかない。「そうは言ったって、いくらなんでも今日死ぬとはやっぱり思えない」という観念が邪魔をするのだろう。それはそれで健全な態度でもある。あまりに強引に「きょう死ぬ可能性だってあるのだぞ」と自分に言い聞かせたとしても、それで思考の可能性がより豊かになるとは言い切れないと思う。