しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

なんであれ時代の変化を感じたがる

 2週間前、ロンドン橋の根元のバラ・マーケットで無差別テロがあって、7人の民間人が殺されて3人の犯人が警察に射殺された、というニュースを見て、なんとなく聞いたことのある地名だなと思い起こしてみると、4年前に研修でロンドンに行ったときわたしは旅程の最終日近くにそこを訪れていた。焼いたソーセージや石鹸や、チーズやオリーブオイルが売られていて、密度の高い雑踏で、じぶんもその中のひとりだった。とはいえ誰も切りつけられず、誰も撃たれていなかったし、じぶんもその中のひとりだった。

 もし何かがズレていたら、自分も切りつけられていたひとりだったかもしれない、と想像してみることはできる。けれども、その想像はまあ数分ぐらいの「ぞっとしたかんじ」で終わってしまう。「死んだのは彼らであって私ではなかった」という確認は、災いに遭ったひとびとへの共感のようでいて、一歩間違えればひそやかな愉悦に転じる。

 

 実際のところ、4年前にはISISはまだ存在しておらず、ロンドンやパリで無差別テロが起きるということはほとんど想像できなかった。想像しないままロンドンへ行って何にも遭わずに帰国したのだから、「もし何かがズレていたら…」という想像はかなり虚構の程度が強い。4年前と今では状況がかなり違う。

 

 たった4年で何かが大きく変動した。「以前と比べて、いまや、あらゆるものごとが加速度的に変化している」……とブルクハルトが『世界史的考察』のなかで述べているけれど、かれがそれを言ったのは19世紀末の講義でのことである。19世紀末で既に「世の中加速してんなぁ」と愚痴られていたのだから、21世紀の持つ速度/加速度は、人間の目には捉えられないものになっているに違いない。この4年の間に何か決定的な変化が生じたというのではなく、4年という期間は、あらゆる変化が巻き起こり、ものごとを破裂させ、その破片をゴミ捨て場へ押しやるのに十分な時間だ、ということなのだろう。

 

 4年前からアシスタントとして参加させてもらっている授業で、「AIは考えているのか」というテーマで受講生(おもに理工学部の1年生)に議論してもらっている。4年前は「ディープラーニング」という単語は1年生のパワーポイントには出てこなかったし、囲碁でもまだAIは勝利を収めていなかった。今年はパワポにも登場した。ドッグイヤーの好例である。

 「4年」というスパン自体にたいした意味は無い。2年であっても8年であっても、ある程度の期間で区切れば、つねに激しい変化と隔絶を感じることができる。ただし自分自身が社会的実感としての記憶を持っていることが必要である。先日、授業の準備をしているとき、教室で学生同士が「ロンドンとかパリでテロがあったニュース聞くと、まだまだ日本平和やなっておもう」と話していた。彼女らが生まれたのは東京のど真ん中で毒ガスが撒かれた事件の後のはずである。世代が変われば比較の起点も変わる。

 

 とはいえ、世代の差異を超えた、絶対的な比較の基点というものもあるだろう。日本においては1945年、1995年、2011年がそれだろう。これは単純な話で、たとえばわたしはアマゾンや図書館OPACで書籍を見つけたとき、それが2011年以前に書かれたものなのか、以後に書かれたものなのかをまず確認する。災害や原発や社会といったテーマに関係の無い書籍でもそのように確認してしまう。Togetterなどで「2010年」のツイートに出会ったときなど、「穏やかな時代のひとびとが書き遺した、黄金の幸福な文字だ」という気分にさえなる。もちろん、2010年でも2005年でも不幸や苦痛や不条理は変わらず存在しているのだけれど……。

 第一次大戦に従軍した/戦時下生活を体験したヨーロッパの青年たちが、戦間期に、大戦勃発前の文学や哲学書を手に取ったときも、似たような感覚を持ったのかもしれない。

 

 他方、中世仏教がやたらと「末法の世だ」と言っていたのは、またちょっと違った時代感覚だったのだろうか。アウグスティヌスが息を引き取ったとき、かれの住んでいた都市はヴァンダル人に包囲されていた。アウグスティヌス本人はどう考えていたかわからないけれど、当時の多くの平均的知識人は、「蛮族」によるキリスト教諸都市の征服を、そのままヨーロッパ・地中海世界の崩壊として、そしてまた終末の到来として捉えていただろう。ただ、そうした「到来」が、ブルクハルトや現代人が感じているような表層・深層の激しい変化の感覚と同列のものであるかどうか、これは簡単に言えないだろうなとおもう。

 

 話がいろいろとズレてしまった。

 4年前と比べて、あまりに時代が変化してしまった……などと感慨にふけるのは、いろいろな事物・生物のなかで人間だけだろう。その感慨の奥には、変化を認識するときに成立する自己の同一性への愉悦があるような気がする。「時代が変わった」とか「俺も変わってしまった」などとつぶやけるのは、その当人に不変のもの、比較の基準点となるものが確保されているからである。というよりむしろ、確固とした自分の内部の基準点などほとんど存在せず、逆に、あやふやな比較を通じて、そのたびに、あたかも不変の自己があるように勘違いするだけなのだろう。

 その点では、ISISやヨーロッパでのテロなどは、時代の変化を安全に「実感」するための対岸の火事にすぎないのかもしれない。本当の変化の真っ只中にいるときは案外それに気づくことができないのかもしれない。