しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

pixiv事件とフィールド系研究者の「やらかし」について

 立命館大の「pixiv論文」事件、議論がわぁっと盛り上がっていて、すこし驚く。よくある話やな、という感覚で自分は見ていた。

 

 この手の失敗・失態を、じぶんの周囲の業界?では、「やらかす」と表現する(日本全国で通じる表現なのか、関西弁なのかわからない…)。やらかされた?相手方にとっては、そんな軽妙な言い回しを使われること自体不愉快なことかもしれない。ただ、便利な表現ではある。

 

 文化人類学社会学など、フィールドに出ていくタイプの学問は、この百年、やらかし続けてきた。いまもきっと、どこかの研究室で・フィールドで、ベテランの研究者が、院生や学生がやらかしているし、未来もやらかし続ける。

 

 じぶん自身、「やらかしかけた」経験はいくつかある。とくに今でも恥ずかしく思い出すのは、熊本地震の被災地に「行ってみた」ときのことだ。既に現地で活動していた院生やボランティア団体やベテランの先生たちに、いろいろな迷惑をかけてしまった。これからも、どこかで「やらかす」かもしれない……一歩間違えると相手方をとりかえしのつかない仕方で傷つけ、自分自身のすべてが破綻するという恐怖がある。

 

 フィールドに入る分野の先生は、院生や学生が「やらかす」ポイントやタイミングを経験上わかっているので、ここぞというところで「おまえ、それはアカンぞ。自分がなにやっとるか、わかっとるんか」と叱りを入れる。それでも院生や学生は見てないところでやらかすので、先生は菓子折り持って先方に詫びに行く。学生はそういった経験をしながら、あるいは周囲の先輩や同級生が「やらかした」事例を間近に見ながら、フィールド・ワーカーとして一人前になってゆくのかもしれない。

 あるいは、先生や研究室全体が「やらかし」に気づかず暴走し、外部からの指摘や糾弾で軌道修正をする、といったこともある。こうして研究者個人、研究室、大学、学会といった各レベルでディシプリンや非成文伝統や倫理規則といったものが醸成されてゆく。

 

 今回のpixiv事件はそうした「やらかし」事例のちょっと新しいケースだなという印象を持った。それ以上でもそれ以下でもない。

naka3-3dsuki.hatenablog.com

 なので、上記エントリの「pixiv国の小説県の二次創作村にやってきた研究者が、その村の特殊なしきたりを尊重しなかったケース」という表現は、自分にはとてもしっくり来た。残念ながらよくある話だった。それが理系というか、情報分野でも生じうる、というだけのことだったのではないかというのが率直な印象なのです。当事者(研究対象にされた作家や、発表予定の学生)はめちゃくちゃ混乱して不安になっているとおもう。ただ、残念ながら、目新しい話ではない気がする。

 

 社会学文化人類学といった分野では、研究者は残念ながら大なり小なり「やらかし」を犯してしまうものだということを前提に教育と自浄の仕組みが整えられている(少なくとも、それが必要だということになっている)。今回「やらかした」発表者が属する研究室や学問領域は、そうした前提をおそらく持っていなかったのだろう。ならば、傷つけた相手には謝って、自前で新しいディシプリンをつくればよい。

 

 そういった倫理規則やディシプリンはフィールドに関わる学問自身が必要とするものだ、という意見が、意外とtogetterのコメントなどでは共有されていないように思われた。当たり前の話だけれど、フィールド系の学問は、フィールドが無ければやっていけない。本格的に「やらかす」ことは、その研究者や大学が、やらかした先のフィールドを失うということを意味する。そのため「もちつもたれつ」みたいな関係を作らなきゃと研究者は腐心するけれど、そういう関係は倫理規則やマニュアルだけでは成立しない部分もあって、むずかしい。

 フィールドと研究(フィールドというのはあくまで研究者視点の呼び方であって、そこを生活や労働の場にしている当人にとっては、別にフィールドでもなんでもないのだけれど)の関係は、常に繊細である。だから、「批判は学問の自由を抑圧しているのでは」という意見は、自分にはかなり見当違いに思えた。学問の自由は何より学問自身が守らなければならないし、それはまず学問が自身の行動を律するところから始まる。自浄作用があるかどうかが鍵だとおもう。