しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

便箋に時間を吸わせる。

 手紙を書いたあと、その便箋をすぐに封筒に入れて封をせず、しばらく机のうえに置いたままにしておくことがある。便箋が部屋の時間を「吸っている」ようなきぶんになる。すぐに投函しても、2日ほど間を置いてから投函しても、便箋に書いた内容には変化は無い。無いのだけれど、じぶんの手からすぐに引き剥がすのはしょうしょうもったいない気がして、しばし時間を待つ。すぐに送ると電子メールと同じことになってしまう気もするし。

 

 書き上げられた便箋の時間はすでに停まっていて、部屋の時間は進み続ける。けれど便箋の文面のなかには、わたしが一行目から最終行まで書き進めたときの時間が流れている。手紙の受取り手がそれを読むとき、読み手の時間と、わたしが書いたときの時間がある種の仕方で同調している。そしてまた、書いた内容の時間がある。今日の午前中は何をしていて、午後は何をしていた…というような。さらにまた、手紙を書き終えてから、宛先に届くまでのラグがある。手紙の受取り手が読むのは10日ほど前のわたしの時間である。

 

 封を切られ、便箋が広げられ、読まれたとき、手紙は自分の任務をさしあたり達成する。そうして手紙を捨ててしまうひとも中にはいるかもしれないけれど、親しい人から届いたものなら、どこかに保管するだろう。すると、手紙の封が切られた瞬間がもうひとつの時間の焦点をつくる。何年か経ってその手紙を保管庫からふたたび取り出したとき、そのひとは手紙の内容そのものよりも、手紙を受け取ったこと自体にひとつの感情を覚えるだろう。便箋を取り出して読み直すと、そこにまた書き手の時間が再生成されるけれど、それは最初に手紙を受け取って読んだときの時間と同じでもあり、違ってもいる。手紙の内にたくさんの時間が入れ子状になって格納されていて、それを受け止める側の人間の時間を逆に照らし出し、立体的な陰影を作り出す。

 

 そうした複雑さを受け止めることに耐えきれなくなったとき、ひとは「懐かしい」とシンプルに言う。手紙が帯びる複雑な時間の迷宮の内へはまりこむのはよろしくないことであるから。「懐かしい」という表現で迷宮の入口に封をして、日常生活のクリアで充実した時間の流れに復帰する。

 

 電子メールでもこうした迷宮性は実現できなくもないけれど、かなり限定的であるように思える。根本的な違いはラグの有無にある。メールではラグは可能な限り切除される。返信の遅れは負債とみなされる。手紙では返信を待つことは、利息を付けてゆくことになる。時間を吸わせる、ということが可能になる。

 

 では電子メールやLINEは風情を全く欠くのかといえば、そうでもない。とくに紙の手紙と連動するとき、それらは威力を発揮する。手紙のなかで、LINEでやりとりした内容について書き加える。LINEで、手紙を送った報告をする。こういうことをしてしまう。それによって、便箋が受け持つ時間がさらに複線的になってゆく。書き手も受取り手も混乱してゆく。