しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

昔のひとは今より頻繁に気絶していたのではないか

 昔のひとは今より頻繁に気絶していたのではないか。精神医学史を読んでいると、登場する人物がやたらと「気絶」する気がする。とくに、強いショックを受けたときに気絶している。あるいは、意識がフワーとなって何かに憑依されたり、予言したりする。

 

 「昔の人」というのもきわめてアバウトな言い方だけれど、すくなくとも自分自身は「衝撃的な知らせを聞いてショックのあまりその場で気を失ってしまうひと」にこれまで出会ったことがない。

 

 しかし少し古い時代の映画などでは、そういったシーンがわりと多い気がする。気がする、と書いたのはいま具体的な例があまり思い浮かばないからだけれど、たとえば市川崑黒い十人の女』(1961年)に、主人公の妻がピストルで主人公を撃ち殺したとき(実は空砲とトマトを使った狂言)、居合わせた愛人のひとりが気絶するというシーンがある。

 

 映画で気絶のシーンがあるからといって、本当にそのころみんな気絶していたかどうかは、わからない。ただ、現代の映画ではほとんど見られない演出であることも確かだ。古い時代の映画に気絶のシーンが含まれるのは、「気絶」がそれなりにリアルな出来事だったからだろう。

 

 映画で気絶するのは、たいてい若い女性か、中年の女性だと相場が決まっている。しかしフィリップ・アリエス『死を前にした人間』には、アーサー王が仲間の死を悼んで臣下の前で激しく嘆き、ついに気絶してしまうという場面が紹介されている。男も気絶していたのだ。

 

 気絶には、おそらく、衝撃的な体験を受け入れ切る前にいったん意識をフリーズさせるという役割があるのだろう。過電流が回路を焼ききる前にブレーカーが落ちて回路全体をシャットダウンさせることに似ている。気絶することによって、衝撃を「分割払い」で受容することが可能となるのかもしれない。気絶せずずっと目を見開いて、受け止めきれない体験を無理にまるごと心身で受け止めてしまうと、いわゆる「トラウマ」となる。(ただし気絶すればトラウマにならない、ということではない)

 

 現代人はほとんど気絶せず、憑依もされず、白昼夢やお化けを見ることも少ない。そういった体験が多すぎると、精神病の疑いがかけられてしまう。はっきりとした、クリアな、途絶えることのない、強い「意識」が正常で、それ以外が異常とされてきた。

 けれど実際は、ある程度ぼんやりとした、すぐに気絶しちゃうような意識の在り方が「普通」だった時代のほうがずっと長いのではないか。