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読んでいるものから:辺見庸『不安の世紀から』角川文庫、1998年

 そのとき私、非常に不思議に思いましたのは事件の当初、最初のころなのですけれども、さして大きなパニックはなかったのですね。静かな現場といってもいい。あのサリンというものがまかれた直後に現場にいた人たちはどういう意味かわからなかったわけです。起きている事がらの意味が、です。サリンとは知らず、大事件とも必ずしも考えていない。現場はまだ命名されていない、つまり意味があたえられていないのですね。現場では通勤者が大多数なのですけれども、通勤者は通常どおり、月曜日でしたが、それぞれの職場に出勤を急ぐわけです。被害者たちは横たわったり、壁に背を預けたりして非常に苦しんでいるにもかかわらず、です。

 私が目撃したのは、大多数の通勤者たちが、苦しんでいる被害者たちを跨ぐようにして通勤を急いでいる姿だったのです。(30-31頁)