しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

電車は祖母である(1歳半視点)

 甥が妹(かれの母)に連れられて実家に来るとき、電車を使う。妹によれば、甥は電車を見て「ばあば!」と言ったという。

 

 電車に乗ると「ばあば」と「じいじ」の家に行ける。だから、かれは電車を見たとき、祖母を連想して「ばあば!」と言ったのだろう。「ばあば(の家に行くことになるでんしゃだ)!」というわけである。

 

 この解釈は間違っていないはずだけれど、大人の側からの「翻訳」にすぎないということも確かである。電車を見てとっさに「ばあば!」と言ったとき、甥はどのようなことばの世界に生きていたのだろうか。

 

 すぐに気づくのは、甥にとって「電車(紫色で、大きくて、にゅーっと走りこんできて、きいきいがたがた音を立てて、その中に入ったり出たりしながら、風景が窓の外を飛び去ってゆくもの)」そのものと、それが持つ意味、すなわち「(これに乗って)ばあば(に会える)」が、不可分である、ということである。

 

 もちろん、電車は電車であり、祖母は祖母である。しかしかれの発話のなかで、両者はある意味で同じなのではないか。

 

 甥はまだ二つの単語を続けて文を作ることができない。確か「二語文」と言うのだったとおもう。「まま、いない」とか「ぱぱ、くるま」といったカタコトの発話である。

 甥が二語文を話せるようになったら、電車を見て「でんしゃ、ばあば」と言うだろう。けれどかれは、まだ一つの単語しか言うことができない。そこで先日のかれは、それぞれ別個のものである「でんしゃ」と「ばあば」が何らかの関係を持っているという表現をしなかった。まだそれができなかった。「この電車に乗る、するとばあばの家に着く」という因果関係や継時関係を作ることができなかった。そのため、「ばあば!」とだけ言った。

 

 とすると、かれのことばの世界では、電車と祖母とはある関係によって結びつけられる別々のものではなく、一体だったのではないか、とおもう。もちろん、甥とて「ばあば」と「でんしゃ」が同じではないということはわかっているだろう。電車はママと話をしないし、ばあばにだっこされるのに券売機で切符を買う必要はない。しかしそれでも、電車を見た瞬間に「ばあば!」とかれが言ったときは、両者は渾然一体だった。電車を見て祖母を「連想した」と上に書いたけれど、これも厳密には違うだろう。

 

 結局のところ、甥にとって「ばあば=でんしゃ」なのだろうか。それも少し違う。というのも、甥が祖母を見て「でんしゃ!」と言うことはないからだ。

 

 きのう教えていただいたところによると、辞項はネガティブに定まる(虚定的である)というのがソシュールの考えであるそうだ。すなわち、「水たまり」という単語は水たまりそのものを指し示しているように思われるがそうではなく、「水たまり」は「池」や「沼」や「雨」や「潮溜まり」で無いものとしての「水たまり」である。ある要素の意味は常に別の要素との隣接的関係によってのみ定まるのであって、外在的な本質や精神や自然に規定されるのではない。

 

 すると、甥が電車を見て「ばあば!」と言ったとき、かれの言語構造はどうなっていたのだろうか。甥のボキャブラリーはまだ少ないが、「まま、ぱぱ、ばあば、じいじ」の他に「でんしゃ」「ぶす(バス)」がある。甥の発話が虚定的だとすれば、かれが「ばあば!」と言うとき、それは「ままでもなく、ぱぱでもじいじでもなく、バスでも電車でも、アンパンマンでもない、それ」と言う意味での「ばあば」である。「でんしゃ」というボキャブラリーを既に持っていながら、われわれが電車だと思いこんでいるものに対して「電車でもバスでもままでもない、ばあば」と言ったということは、どういうことだろうか。

 

 言語学や発達心理学について全く知らないまま書いたので、多々間違っていることがあるかもしれないし、いまさらという話かもしれない。ただ、なんとなく面白かったので、書いてみました。