しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

理由なき搬送の世界(1歳半視点)

 きのう、甥は母親と祖母(私の妹と母)とデパートに行った。

 帰りの電車のなかで甥はぐっすり寝てしまい、その間に祖母は電車を降りて神戸の家(実家)に帰り、甥と母親は大阪の自宅に帰った。

 甥は、目覚めると祖母がいなくなっていたので、「ばぁば?Σ(・∀・;) ばぁば?Σ(・∀・;)」としばらく不思議がっていたそうである。

 

 いまの甥にとって、世界はどのように現れているのだろう。

 よく知っている家族・親族がとつぜん現れたり、いなくなったりする。大人の場合、それぞれ行動の理由があり、お互いにそのことをそれなりに把握納得している。ところが甥の場合、「理由」という感覚そのものがおそらくまだ無い。実家で犬のしっぽを掴んで遊んでいると、とつぜん別の大きなオトコ(わたし)が現れ、しばらくすると別の大きなオトコ(わたしの弟)も現れ、ひさしぶりやなーとか言われて遊んでもらっているうち、また2人のオジは去り、そのうちパパが現れ、車に載せられる。

 

 デパートに行った、と書いたけれど、ここでも母の腕がとつぜん上から伸びてきて抱きかかえられ、ダッコかなーと思っていると家の外に出されて歩けと言われ、ゴキゲンに歩いていると電車が出てきてさらにゴキゲンになるが、なぜそうされているのか、さっぱりわからない。というか、「なぜ」という問い自体がまだ無い。

 かれが生きている世界を推測すると、いろんな人がとにかく現れては消える世界である。さらに、しばしば上から母や祖母の腕が伸びてきて、どこだかわからないままひっきりなしに輸送される。まったく為されるがままだ。理不尽!

 

 プリモ・レーヴィの『休戦』という小説を思い出す。主人公は強制収容所から解放されたあと、ソ連軍の都合で、あっちの宿舎こっちの兵舎へと連れ回される。なぜそこに輸送されるのか、いつ故国イタリアへ帰してもらえるのかソ連軍の将校に聞くが、理由も予定も教えてもらえない(おそらく、現場の将校もよくわかっていない)。

 

 甥がいま生きている世界も、レーヴィの体験にある程度似ている。移動の自由は主体性の重要な側面だ。ただし、レーヴィは理由の明かされない搬送を全く理不尽なものと感じていただろうけれど、甥の場合、世界とはだいたいそういうものだと了解しているのだろう。いろんなひとが現れては消え、抱きかかえられては運ばれ座らされる世界である。

 しかしまた、ことばを覚え始めると、かれはこの世界から半分卒業するだろう。理由、根拠、因果関係の世界への入場である。ごくろうさまなことだとおもう。