災害と現実

 現実であるはずなのに、現実として認識が徹底できないような「現実」もある。

 

 たとえば、大災害で何千人もの人が死んだ、といった「現実」がある。

 もしその災害で、わたし自身が家族を喪ったり、家・財産・職業を失ったりしたのなら、その現実は、わたしに強く関わる事態としての現実である。わたしはその現実から一時的に逃避することができるが、逃げ切ることはできない。

 

 しかしわたしがそこまで深く直接的なかかわりを持っていない場合、つまりその災害がわたしにとって「そこそこ他人事」であるけれど、完全に無視もできないような場合がある。そのような場合、何千人もの人が死んだという「現実」を、深く認識しきることは、簡単ではない。いま考えたいのは、このタイプの「現実」である。

 

 東日本大震災の死者・行方不明者は18,455名であるとされる。阪神大震災は6,434名であるとされる(この数字はとても曖昧なものなのだけれど、それについては後日まとめたい)。

 わたしはこの数字については認識できる。なんと大きな災いであろうか、と感じることができる。この数字はまた、世のほぼ全ての人が認識できる、いわば客観的な数字でもある。

 

 けれども、この数字はあくまで最初の扉のようなものであって、その数字の奥にある「意味」を考え始めると、とたんに認識が追いつかなくなる。18,455名、6,434名のそれぞれが、ひとりずつ名前を持っていた。その名前を順にゆっくり並べようとすると、次第に現実感覚が無くなってゆく。ほんとうに、そのひとりひとりがその瞬間まで生きていて、今はそうではない(あるいは、不明である)。そのことを理解しようとすると、こちらの心に防壁のようなものがじわっと生えてきて、感覚が遮断されてしまう。

 

 リフトンは、これを「心理的閉め出しpsychic closing-off」と呼んだ。広いカテゴリとしては、ジャネの言う「解離」に入るだろう。キャパシティを越えるような非日常的な現実に対して、心の安全シャッターが下ろされるような状況である。

 

 18,455名、6,434名という数字は事実(fact)であって、個々人による意味付けから独立して存在する。だから、事実は受け取り手に身体的・心理的な負荷を引き起こさない。しかし、この数字から一歩踏み込んで、じぶんの感受性を用いながら、そこで起きていたこと、いまも生じていることに入り込もうとすると、それは現実(reality, actuality)になる。

 

 事実と現実の違いはどこにあるのだろうか。「現」は、わたしの目の前で起きて、わたしを揺り動かす。状況と自分とが一体である。そのため、現実認識はかえってあやふやなものとなる。わたしという主体が現実に深くのめりこもうとするほど、逆にその主体の拠って立つ土台が危険なものとなり、静的な理解として成立するはずだった認識は状況と不可分の反応になる。

 

 現実認識には、そーゆーややこしさがある、とおもう。