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現実認識と冷静さ

 現実を認識するためにもっとも手っ取り早い方法は、クールになることである。

 自分が熱心に関わっていることからいったん身を引き、頭を冷やすということがある。あるいは、ひとびとがあれこれ騒いでいるものごとから距離をとって静かに見つめることがある。喧騒から身を引き剥がすと、あいつらアホなことしよるなぁとか、自分もけっこうイタイ振る舞いをしていたっぽいなということが、見通されてくる。

 

 現実から距離を取ることで現実認識が可能になるというのも不思議な仕組みだけれど、人間の認識というものはだいたいそーゆーふうにできている。

 

 ところが、現実の動きから一歩離れて、クールに、ちょっと拗ねたかんじで見ているだけでは、わからないこともある。自分や世界の在り方自体は冷静に見つめなおすことができるのだけれど、刻一刻と変化してゆく世界や自分から取り残されてしまう。

 

 クールなだけでは現実がだんだん冷えてしまう。むしろ、あるものごとに無我夢中になることで、理解が開かれてゆく場面もある。無我夢中になっているとき、打ち込んでいる対象だけしか見えず、しばしば周りが見えなくなっている。それは「夢を追っている」態度であり、上記の意味では現実認識ができていないことになる。ところが、夢中で取りくむことで、クールなだけでは開かれなかった場面に突入してゆくときがある。現実をまやかしていたはずの夢や物語が、いつのまにか現実を深く掘り下げる突破口の役割を果たしている。ひとによっては、夢を追うことで、世界の在り方を、つまり現実そのものの方を変えてしまうようなことさえある。夢が現実になった、という。ツィオルコフスキーゴダードフォン・ブラウンなどは、その例だろう。

 

 色恋沙汰などは、現実と夢中のもうひとつの例かもしれない。あの人のことだけしか見えなくなっちゃった、というのはもはや手遅れであって、あんなオンナ/オトコなんてやめときなよという周囲の諫言は耳に入らない。それがいったんクールになって現実認識に入ってしまうと、なんだか夢を見ていただけだなぁということに気づく。冷静になってみると、アラが目立ち始める。ところがずっとクールに人間観察だけを続けていると、けっきょく自分を抱擁してくれる相手はいつまでたっても手に入らず、アラが目立つ者同士がしっぽりネンゴロ・モードに入ってゆくなか、ひとり自分だけ取り残されていた、ということにもなりかねない。