しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

現実認識とはなにか

 「現実認識」という語は、ふしぎな表現だとおもう。

 認識しているなら、それは現実だろう。ところが実際には、〈認識しているだけの認識〉と、〈現実をしっかりと認識している認識〉が区別されていて、後者が現実認識と呼ばれる。

 

 とくに、自分の身の回りのことについて現実認識がきちっとできているどうか、ということが、痛い人とフツーの人、あるいは大人になりきれていない人と大人、これらを分ける境界のようにみなされている。あのひと、なんだかカンチガイしてるよねー、などと思われちゃうのは、たしかに嬉しくない。「身の程をわきまえていない」などと言うこともある。

 さらにはまた、ビョーキとフツーの区別も、現実認識に求められることがある。世界的陰謀によりCIAが俺の電話を盗聴してるんだ!と叫んでいるひとは、なるほど現実を認識できていない。

 

 とはいえ、「そこまで痛くはない人」「ビョーキでないひと」も、ある程度の現実認識を保ちつつ、ときたま現実認識に失敗しているはずである。冷徹な現実認識のみで生きることは不可能だ。常識人でも、つい夢を語ってしまったり、ふらふらーっと想像にはまりこんでしまったりする。ビョーキにならない程度に妄想世界へ行き来することができるのが、セイジョウの要諦かもしれん。

 

 「現実認識」といっても、ゆらぎというか、幅というか、ある程度ファジーなものなのだろう。しかしそのファジーさの内部で、可能な限り明晰な現実認識を強いられる状況もある。そのようなとき、どうすればよいのだろう。