しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

自殺対策、という表現があまり好きではないこと

 自殺対策、という表現が、どうにも、好きではない。

 

 「対策」と言われると、何か悪いことが起きているのでそれを解決しましょう、という合意が前提にあるよーな気がする。熱中症対策、情報漏えい対策、アトピー対策、というような。

 

 じっさいに自殺を考えているひとがとなりにいたら、そーゆーことを伝えられたら、やばいなーどうしたらええんかなーとわたしはおもうだろう。その人のために何かをしたり、しなかったりするかもしれない。ただ、それを「対策」と呼ぶことはない。

 

 社会ぜんたいで観れば、自殺は「対策」すべきものである。そりゃやっぱり、自殺は良くないことなので、多いより少ないほうがよい。

 けれどもまた、自殺を選んでしまったのなら、それはそれでそのひとの決断であって、「ああ、うーん、そうかー」と応答せざるをえない部分もある。ような気もする。自殺する自由というか、権利というか、それを他人からいきなり剥奪する権力はわたしにはない。念のため付け加えておくと、自殺したい奴には勝手にさせておけ、という主張ではない。

 

 自殺が直近の選択肢に入っているひとに、「自殺は悪いことなのでやめましょう」とだけ言っても、話が咬み合わない。これ以上死なないでいることを辞めることも、それはそれでひとつの在り方なのかなぁ、ということを共有するところまで降りてきて、やっとわかることがあるような気がする。

 

 わたしが「自殺対策」ということばに対して微妙にいじけた反感を持つのは、この「降りてゆく」プロセス、いいかえれば、自他の自殺の自由を留保しつつ、「それでも、うーん、」という行司軍配差し止めを挟み込んでゆくプロセスを、自殺対策ということばがぐちゃっとすっ飛ばしているように感じるからなのかもしれない。

 

 でもまー、実際にいろんなポスターとか啓発活動とか、こころのナントカダイヤルとかが命綱のきっかけになったひともいるだろうので、いちがいに否定すべきもんでもないよなー、ともおもう。でも、「ひとまず電話してください」というヤサシサ・ポスターに取り囲まれてると、自殺くらい自由にしたっていいじゃん、という反感が生まれることも確かなのだ。いや、でも、「いいじゃん」で済ませるのはやっぱあかんか。

 

 とりあえず、Facebookが自殺防止システムを導入するというニュースを読んで、どうにも気持ち悪いなぁとおもったので以上のことを書きました。歯切れが悪い文章。