しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「論文」、このふしぎな形式

 きのうのゼミで、「論文」という形式にどう向きあえばよいのか、といった話になった。

 

 わたしが所属する臨床哲学研究室は、学部生(2〜4回生)が20人くらい、院生も20人くらいいる(らしい)。ゼミは学部生・院生合同である。下は18,9歳の若者から、上は70代の博士後期課程まで、ひとつの教室でぎゅうぎゅうわちゃわちゃしている。たまに赤ちゃんが泣いていたり、卒業した元院生がマルクス道元を読みにきたりする。駄菓子屋のよーな研究室であると言えなくもない。

 

 学部生はとにかく「卒論」を書かねばならない。これはひじょうに苦しく、たいへんな作業であるらしいという恐怖をかれらは抱いている。

 そして、かれら学部生から見ると、院生は、せっかく卒論を書いたのに、まだ大学に居残って論文を書いたりしているらしい、わけのわからない存在である。そしてほとんどの学部生にとって、卒論以外の「論文」にはどのようなものがあるのか、というのが、とても謎である。そして院生が何をしているのかも謎である。(わたしもじぶんが何をしているのかたまに謎であると感ずる)

 

 院生の仕事は、論文を書くことであろうか。たしか、そういう話になった。「仕事」と言っても、その対価として原稿料や給料が発生することはきわめて稀である。そこがまた話をややこしくしている。とりあえず、院生は論文を書くために研究室にいるのであろうか。

 

 ある意味で、その答えはイエスである。というのも、院生は修士論文あるいは博士論文を書かなくてはならないからだ。それは、学部生が卒論を書かなくてはいけないのと同じである。

 ところが修論・博論以外の、一般の「論文」という形式が存在する。というか、そっちが普通の論文である。それは、ザッシに投稿して掲載されるやつである。掲載される前にサドクが行われるザッシと、そうでないザッシがある。研究者になりたかったらサドク付き論文を量産しなくてはならない。それは、プロ野球選手になりたかったら甲子園か六大学野球で目立たなきゃいけないのと、似たようなものである。

 

 論文とは、形式である。おおよそ2万字以内で、「ですます調」ではなく「である調」で書き、脚注と参照文献一覧がたくさんあり、一人称と二人称(わたし、あなた)を使わず、冗談やごまかしはできるだけ避ける。あと、嘘やほかの論文からのコピーをこっそり混ぜ込んではいけない。それがバレたら国会図書館の前でセップクするのが『古事記』に書かれた古代からのルールである。

 

 だれがこれらの形式を定めたのか、実はよくわからない。アウグスティヌスなどはしょっちゅう文章のなかで「あなた」「あなた」と神様に向かって呼びかけているので、上記の形式の時代に生きていたら困ったであろう。いろいろな業界のいろいろな風習が寄り集まるうちに、この形式ができてしまった。いまや世界中の「研究者」が、理系とか文系とか関係なく、このルールに則って「論文」を書いている。人類史上初めてのことであろう。

 

 とりわけ、「字数」に上限があるのは、文章の形式の規定として、特異である。「小説とは、250ページ以内の物語である」という架空の規定を思い浮かべてみると、それがきわめて奇妙であるとすぐわかる。なるほど短編小説や長編小説というカテゴリはあるが、それは作家が自由に選択できるものである。新人賞の投稿規定が原稿用紙何枚までと定めることはあるが、作家がその受賞作に加筆して250ページを超えたら小説とみなされなくなる、ということは無い。

 

 はなしを戻すと、院生は、この形式にじぶんの文章を流し込んで整形する仕方を習得している。その形式を利用することで、自分の論文をとにかく他人に読んでもらえる可能性が発生する。自分の論文が公開されることで、それは社会的な意味にひらかれてゆく。ひとびとに影響を与え、批評の対象となる。

 

 けれども、論文という形式に則って、文章を書いて発表するという選択は、院生や研究者が取りうる選択肢のひとつにすぎないのではないか。そういう疑問も当然生まれる。そこで、他にもっといろんなことやってみようよという試行錯誤が発生する。人間は知的な存在であるから、あるルールがつまらないと思ったら、べつのルールを試してしまうのである。既存の形式を適切に活用する知性と、既存の形式から距離を取って遊んでみようという知性は、別物である。その両方の知性を持った人間がたくさんいたらたいそう楽しいことであろうし、「臨床哲学」はわりとそーゆー方向性に親和性がありそうな気がする。

 

 ところが、形式から外れたらお金は与えませんよというのが文科省財務省の方針なので、みんなこまっている。