しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片を毎日1000字くらいで書く。

こけること

 きのう、迷子とは、迷ったときに対処ができないことだ、ということを述べた。大人も道に迷うことはあるが、たいていの場合は自分でなんとか対処できてしまう。したがって大人は迷子にならない。

 

 道に迷ったときや、親とはぐれたとき、リカバリーする(問題に対処し、危機的状況から平常状態へ復帰する)ことができないことが、迷子である。ところで、迷うとかはぐれるといったことは、ひろい意味での「失敗」と言える。

 

 「失敗」のわかりやすい例は、「こける」という動作である。歩き始めたばかりの子どもは、よちよち歩きをしながら、こける。こけると、泣く。すると親が助けにくる。けれど、じぶんで立ち上がってみることもある。立ち上がることは、「こける」という失敗をじぶんでリカバリーすることである。

 

 歩き始めたばかりの子どもを観察していると、からだの重心がお尻にあって、すとんすとんと尻もちをつく。そのたびにえっちらほいと立ち上がる。それを繰り返しながら、バランス感覚や足腰の筋力がついてゆくのだろう。

 

 走り始めるようになると、もっと派手に、前にむけてがつんとこけるようになる。その場合も、ときに親に抱き上げてもらったり、じぶんで立ち上がったりする。そうやって、こけない走り方と、こけてもまあ立ち上がればよい、ということを覚えてゆく。

 

 とてもおおざっぱな言い方をすれば、「成長」とは、失敗に対するリカバリーの方法をひとつずつ身につけてゆく、ということなのだろう。

 さらに大人になると、失敗する前から、失敗したときのリカバリー方法もあらかじめ考えてものごとを計画するようになる。高校受験の「滑り止め」はその最初の大きな例だろう。

 大人が迷子になることができなくなるのも、こうした「成長」のおかげである。

 

 ところが、成長や成熟が積み重なってゆくうちに、「老い」という別の次元がからだに入り込んでくる。こどもはこける。大人はこけるような走り方をしないし、こけても受け身をとれる。ところが、老いてくると、こんどはこけても受け身が取れなかったり、大腿骨骨折といった大事件に発展する。じぶんでリカバリーできるはずなんだけどなぁと思いながらからだがついてこなくて、まわりの人間がわやわや取り囲んできて、なんか入院とかケアとかたいへんなことになる。

 

 成熟した大人になるためには、子どもや若者のころに、やわらかい失敗とリカバリーをくりかえすのが良い。のだけれど、「老い」によってからだやこころが動きづらくなったり、耳が遠くなったりする変化は、成熟しててもしてなくても無差別に襲来するらしい。不公平なような、公平なような、ふしぎなことだとおもう。