しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

迷子のなり方

 迷子になるとは、どういうことだろう。どうやったら迷子になれるんだろう。

 

 ちょっと前、北海道で男の子が山で迷子になって、運良く自衛隊の演習場で発見されたという事件があった。

 キャンパス内の理髪店(うちの大学は、生協内で散髪できるのです・・・)のおばちゃんと、「迷子」について話しているうちに、上記のぎもんを抱いた。

 

 きわめてたいせつな前提として、わたしは、子どものころ、よく迷子になった。

 スーパーやデパートで、母といっしょに売り場を回っていたつもりが、これちょっと面白いなぁとおもうものを見つけるとそこに立ち止まってしまって、いつのまにか母がいない。ちょっと探せばすぐ見つかるさ、とおもう。そこでうろうろし始めるけれど、子どもの目の高さから見ると、ゆきかう買い物カートなどがけっこう邪魔で、ざっと見渡せないのである。ひととおり売り場を回っても見つからない。ここらへんで心細さがデフコン2ぐらいに格上げされる。どこだろう、どこだろう、と探し回っているうちに、いったいここは自分のよく知っている、よく連れてこられるスーパーであるのかどうかさえ、不安に思えてくる。母が見当たらなくなると、じぶんの立ち位置までわからなくなるのだ。

 

 で、父によると、わたしのことが見当たらんなと思っていると、そのうちスーパーのすみっこからわーんと泣き声が聞こえて、行ってみるとそれがわたしである。というのが常であったそうだ。

 なおわたしの妹の場合、見当たらんなと思っていると、商品のお菓子をひとつだけ手に持ってスーパーのレジの前で待っていた、というのが常であったそうだ。かのじょはいま頼れる夫を得てこんどはじぶんが産んだ子どもの迷子を捕まえる立場である。わたしは大学で哲学だとか超越論的還元だとかゆっている。三つ子の魂百まで。

 

 とはいえわたしも成長したので、もはやだいたいの場所には迷わず一人で行くことができるし、たまたま何かの用事で実家の親と出かけ、出先ではぐれても、LINEでそっこー連絡が取れてしまう。なんだけっきょくマザコンか。まあそれはいい。

 

 肝心なのは、いまわたしが迷子になろうと思っても、それはなかなか難しい、ということである。

 道に迷うということも、無くはない。梅田の地下とかよくわからない。けれども、さしあたり道に迷ったとしても、案内板を探したり、スマホの地図を使ったり、周りの人に聞いたり、最悪もういいやとあきらめて帰宅することもできる。ようするに、迷った場合のリカバリー方法を知っている。

 ここに、子どもの「迷子」と大人の「道に迷った」の違いがある。迷子は、迷子になったら最後、どうすることもできなくて、なにかをすればするほど主観的事態が悪化してゆく。これに比べると、大人の「あれ、道に迷ったな」は、じぶんで対処可能であり、道中のさまざまな困り事のひとつにすぎない。ハンカチを忘れてきたとか、電車が混んでて蒸し暑いというのと変わらない。

 

 とはいえ、大人も「人生の道に迷った」みたいなことはあるといわれている。そういう局面ではおとなも確たるリカバリー方法を知らないことがおおく、自分探しの旅に出たり、出家したり、バンドを結成してしまったり、酒とか女とかバラとかに耽溺したりするのだという。それはそれで、迷子のひとつかもしれない。さらには自分を見つけてくれるはずの「親」がそのころは認知症で徘徊しているような場合もあるので、たいへんである。