しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

「先生方」という言い方が嫌いだった。

「先生方」という言い回しが、なんとも言えず嫌だった。いまもぞっとする。同系統の表現に「先輩方」「皇族方」がある。これもひどくイヤである。

阪大に来て、実質的に初めてこの表現を聞いた。その前にいた大谷大学では一度も聞かなかった。阪大でも自分が所属した文学研究科ではおそらくほぼ聞かなかった。同じ阪大でもX研究科に行くと、しょっちゅう聞いた。何とも言えないおぞましさがあった。ひとりひとりの「先生」は好きなのだけれど、それが「先生方」になるともうダメだった。個人の顔が消えて、権威主義への同化が強制された。一刻も早く消えて欲しい日本語である。

あなたイズだれ、とりわけ女

阪神電車の窓にサプリ薬品の広告が貼り付けられている。薬剤のプラスチック製の容器はやや控えめに映し出され、それよりもこちらを向く若い女性の顔が大きく配置されている。有名な女優さんやモデルさんなのか、無名の方なのかわたしは知らないけれど、すっきりした美人の方である。そしてその女性がなんとも悦びに満ちた顔でこちらを見つめている。金色の流体のようなイラストがなびく髪に半ば重なって背景を構成している。そういう広告である。

不思議な表情だな、とおもう。表情というか、広告が不思議なのだけれど。広告の女性はだれかを見つめている。たいそう嬉しそうである。「恋人に呼ばれて振り向いた」「給料が5000兆円に増額されるという通知を正式に受けた」「全自動洗濯物畳み機が家に到着した」という出来事がいっぺんに生じたらこういう表情をするのかな、とおもう。このサプリを買えば、自然とこういう表情が湧き出るくらい良いことが起きますよ……という広告なのだろう。


この女性はだれなのだろう。といっても、モデルの実際のお名前を知りたいわけではない。どういう人であるか知りたいわけではない。モデルはモデルであって、撮影スタジオを出れば別のひとだろう。彼女は実生活でもときにこの広告写真のような表情をするかもしれない。しないかもしれない。それはそのひと個人の生活に属するものであって、わたしの好奇心の対象ではない。

いま考えたいのは、このひとは、いま目の前で、広告の写真のなかで、焦点の無い微笑みを注いでくれているこの〈ひと〉は、だれなのだろう、ということ。


それはだれでもない、という答えがまずある。強いて言えば「サプリの効果を暗示し、購入した消費者に幸福な生活を保障する女性X」である、と。それは結局、「そもそもだれでもない」ということに他ならない。提示されているのはあくまで広告のための記号であって、広告を成立させるために必要な最低限の「キャラづけ」はあったとしても、そこに人格は存在しない。

「だれ?」と問いかけるためには、その問いかける対象が問いに先立ってひとつの人格であることが前提となる。人格でないものに「だれ?」と問うこと自体が一種の文法エラーである。


だが、ほんとうにこの人に人格は存在しないだろうか。あるいは、「だれ?」と問いかける前に人格の有無が成立しているのではなくて、「だれ?」と問いかけることによって初めて人格が成立するのではないか。あるいは、名前が永遠に与えられない誰かにすぎないとしても、やはり「だれ?」と聞いてしまう何かがそこに生じてしまうのではなかろうか。

別の角度から考えてみる。この広告の女性は、この表情以外の存在を決して持たない。広告がシリーズものになれば別の写真が使われるかもしれないけれど、さしあたりは、いまここの車内で対面しているそのままそれだけの存在である。彼女には思考も歴史も氏名もない(モデルさんがそうだということではなくて)。肩から下の身体も無い。さしあたりは不思議な笑顔と髪の艶がある。わたしはそれに見つめられている。見つめられているが、見つめられる理由がさっぱり無い。しかし笑顔である。この笑顔はなんなのだろうか。この笑顔は、何に規定されて、どこからどこへ向かうのだろう。


もう少し考えたいのですが、乗っている阪神電車が梅田に着いたので、切り上げることにします。

休日について

日曜日に学会に行っていた。京都駅のまわりは人がとても多かった。朝から夕方まで主に哲学対話の話を聞いていた。そしてその振替休日を、きょう取った。

 

休みの日だな、という感覚をじんわり感じている。久しぶりなのか、初めてなのかわからない。

 

とくにこの5年は「休日」が無かった。といっても常に休みなく働いていたわけではない。むしろべっとりとダレる日も多かった。

この5年は、奨学金をいただきながら大学院にいた。平日と休日の区別がはっきりしなかった。一日の生活でも、作業をしている時間と休んでいる時間のメリハリを付けづらかった。ぼんやりダレていると罪悪感に襲われた。努力すると達成感はあるが、どこか虚ろだった。

 

就職すると、平日と休日のコントラストが急に明確になった。月次なことだけれど、休むことは大切だなと考えるようになった。あの独特の、秒針が罪責感と焦りでぶよぶよするかんじが、いまは無い。そうか休日ってこういうかんじなんですな、とおもっている。おもっているが、その実感の中身を説明することが意外とむずかしい。

休日とは何なのだろうか。休息とは何なのだろうか。

強いて言えば、時間から値段が剥がされるということが、ひとつの本質ではないかとおもう。10時に家を出て、いまは13時すこし前だけれど、10時も13時も平等に散逸してゆく。この3時間を有意義に使ったのか、というようなことを考えなくて済んでいる。時間のもとで自分の行動を制御しなくてよい。それは、楽なことだ。

すると、意義や価格といったことから自分をいったん引き離すことが、休日の役割なのだろうか。

 

***

 

10時くらいまでFactorioをして家を出た。阪神三宮駅で降りて、昇ったことのない出口から地上に出ると、現在地と方位がわからなくなった。ビル街の四ツ辻のすみだった。ひとつ隣の筋のマルイをぼんやり眺めていると、日曜日に市バスの事故があった筋のひとつ東にいるとわかった。じぶんの街のことなのに意外とわかっていない。そのまま歩くとすぐに区役所に着いた。引っ越してきたとき交付された健康保険証を返却した。3月の保険料だけは4月27日に引き落としになりますので、と窓口の職員さんに言われた。エレベーターでいっしょになった夫婦らしきひとたちが保育所のことを話していた。小さな男の子も駆け込んできて、父親らしきひとに言われてエレベーターの「2階」のスイッチを背伸びして押した。2階でエレベーターは止まり、男の子は駆けて出た。

 

ファストフード店のすみの席で翻訳作業をしていたら、隣席の男性がスマホを片手に持ちながらグラスの底をストローでしゅるしゅるしゅるしゅると吸い続けた。無作法なことだとおもった。その男性が退席して、つぎに座ったスーツ姿の男性もやはりスマホを片手にグラスの底をストローでしゅるしゅるしつこく浚いはじめた。なにかそういう教団・・・? 俺はひそかに付け狙われている・・・?

 

 

ふみふみこさんの同世代感がはんぱない

ふみふみこさんの漫画が好きで、たまにぽちぽちと買って読んでいる。

どこらへんが好きなのか。ひとつは使われていることばが不思議とやわらかいこと。シュークリームの皮みたいなかんじ。それから、線がやわらかいこと。線もことばも、狙って「やわらかく」することはできる。そういう漫画はたぶん多い。この人の作品はそうではない。やわらかさに芯がある。

 

作品を読んでいると、なぜか不思議と、このひとは自分と同世代なんじゃないかなあと感じる。なぜかわからない。作品の中に世代を示すような記述がいくつか出てくることがあるが、それだけが理由ではないとおもう。線の作り方や話の運び方といったところに、時代の雰囲気(雑な表現だが)がじわっと染みているような気がする。

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『愛と呪い』137頁

 高校生の主人公がタバコを吸う。著者の半自伝的作品とされるこの漫画では、タバコは社会や家庭に対する反抗を示す記号ではなくて、むしろもっと身体的なもの。他人に見せつけるために吸うのではなくて、自分の「口を塞ぐ」ためにくわえている(だからタバコをくわえるシーンは何度か出てくるけれど、彼女がタバコを道端などに捨てる場面は出てこない)。身体の内側と外側の境界に開いた穴にとりあえず「蓋」をする。次のシーンで、主人公は自分に告白してきた同級生男子に、自ら口淫する。あるいは援助交際で年上の男に抱きしめられるとき「胸の穴」が塞がれているように感じる。自分の身体を記号にしている。著者の描線は、表面的には虐待を受けて壊乱してゆく自分の主観的状況を激しく表しているようでありながら、どこかそこに徹しきれない。

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ど根性ガエルの娘』2巻、12話

 同じく(そうした体験を「同じ」と括るべきではないのだけれど)幼少期からの家庭内虐待を扱った『ど根性ガエルの娘』の描線と比較してみるとわかりやすいかもしれない。この作品では描線と著者と登場人物と作品が常に一体である。それが良い悪いということではない。

 これに対して、ふみふみこ作品の描線は、心情をべったり塗り込んでいるように見せかけて、じつのところ、すっと突き放している。その線が、著者と登場人物と読み手の距離感を絶えず微細に揺り動かしながら、身体と物語がふちどられてゆく。線の一本をすっと引っ張るとふっとほどけそうな。そういう記号になる。(なお、最近のひとには左上コマの円筒形のデバイスの正体がわかるまいよ…)

 

自分より若い世代も、年上の世代も、このひとの線を描けないし、その線が含んでいるじとっと渇いたまま放置されてるかんじを読み取れないのではないか、とさえおもう。

 

なのでなんとなく同世代なんやろなって思っているまま今Wikipedia見たら1982年8月生まれって書いてあって、学年が1年先輩でしたすんません(滝汗。みたいなかんじにひとりでなっている。すんません。

 

 

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

 

 

科研神社を建てよう

日本全国の研究者が参拝する「科研神社」を設立することをかんがえている。

たぶん菅原道真とかを祀る。

 

科研神社は、科研費その他競争的資金に応募する研究者や院生をひろく受け入れる。不採択が続いたときのお祓い、採択祈願の祈祷、おみくじの販売等をおこなう。

科研神社の一大行事は、申請書類のお焚き上げである。無念にもDCやPDに不採択だった若手研究者の血と汗と涙といろんな脂が滲んだ申請書類をいっせいに燃やし、その呪いを解くのである。

また近所には湯治場があり、膨大な申請書類を審査して疲れ果てたベテラン教員が数日宿泊して眼精疲労・肩こり腰痛を癒やす。

また、安価で利用できる会議場を併設し、ちょっとした会合に使ったり、非常勤講師の労働問題などをはなしあう。

 

問題は場所である。上智大学の構内に借りられないだろうか。

意識と快苦

欲しいものが手に入らなかったり、愛するひとと別れなければならなかったり、憎いやつに会わなければならないとき、苦痛の感情を覚える。もっと単純に、暑かったりひもじかったり、ケガや病気で痛みを覚えるとき、苦痛の感情を覚える。

反対に、身体の欲を満たしたときや、名誉や金銭を得たときや、ライバルに勝ったとき、なんとも言えぬ快の感情を覚える。


こうした感情は意識の外部から意識へともたらされる。ここでの「外部」とは、たとえば腹痛のときのお腹とか、眼前の美しい絵画などである。意識それ自体が意識において快や苦を生産することも無いではない。しかし一般には快苦は意識の外部から意識に与えられる。意識はときにみずから捕まえ、ときに受け取る。意識が快や苦の源泉を支配できるなら、意識は快しか受け取らないだろう。しかし意識は外部を全て支配できるわけではないので、むしろほとんどのものを支配できないので、苦痛を受け取らざるをえない。


ところで、意識がこのように快苦を受け取るのは当然のことのように思われており、実際に私たちはそのようにしか生きることができないのだけれど、そのように意識が快や苦を受け取るべき必然的な理由というものは存在するだろうか。


一般に、意識が快や苦を感じ取るのは、快を増し、苦を避けるよう意識が主体を動かすためであると理解されている。言い換えれば、意識が快いものと嫌なものを覚えていて、それらを次の機会に増減するために機能している、と。たとえばストーブに触れて火傷したひとは、その苦痛を意識が受け取ったので、次から同じ苦痛を得ることのないよう行動するだろう。これが意識が快や苦を受け取ることのもっともな理由である。


けれども、快を増し苦を減らすというはたらきにおいて、意識がそれらを受け取ることは絶対に必要なのだろうか。

たとえば昆虫や植物も自身の生存のために役立つものを増やし危険なものを避けようとする。かれらはそれらを快や苦として知覚することはない。意識をもたない。しかし適するものと不適なものを認識し、回避や捕獲などの行動に入ることができる。

人間の場合であっても、身の回りの全ての出来事が意識に上るわけではない。たとえば生存をおびやかす雑菌が皮膚や粘膜に付着しても、その一粒ずつの接触に対して痛みや不快感を覚えることはない。ほとんどの場合は身体が、免疫系が自動でやってくれる(はたらく細胞たちは苦労を感じているかもしれないが…)。菌やウイルスが増殖し「風邪」になった時点で、意識は初めて苦痛を実感する。


つまり、必要なのは良いものと危険なものの認識とそれに対応した行動であって、意識がその反応の弧に介入することは絶対に必要であるのか。仮に必要であるとして、快と苦という仕方で関わることが絶対に必要であるのか。


例えて言えば、意識とは官房長官のようなものかもしれない。主体においてはさまざまな臓器や心理や制度や習慣や細胞がそれぞれの任務を果たしている。かれらは人間の主体という行政機構の各省庁である。意識はその省庁から適宜報告を受ける。報告内容はきわめて多種にわたるが、官房長官がとくに重視するのは快と苦についての報告である。かれはこれを受け取って、快についてはこれを味わい、苦についてはこれを苦しみ、一刻も早く減じようとする。

この官房長官は原初から自分は主体の行動と知覚を差配していたようにぼんやり感じており、自分自身まさしくそうに違いないと確信している。しかし実は進化の過程において、かれのポストはごく最近設置されたものである。官房長官の職務を改めて設定するさい、かれは実はみずからこの快と苦の受信という仕事を請け負ったのである。

他の旧来の省庁の官僚たちから見ると、官房長官職はきわめて不可解な存在である。制度に従って報告を上げると、いちいちニヤニヤしたり、助けてくれえとのたうち回ったりしている。そのうえ自分でそれをコントロールできるわけでもなく、ただ命令を適当にするだけである。

それだけではない。この意識という官房長官は、主体の真の危機においてはあっさり官房から抜け出して眠りこんでしまったり(気絶)、解離したりする。ほんとうに役立つべきときには職務放棄をするのだ。また、他人に手術をしてもらうときには痛すぎるのはイヤだからと言って麻酔をかけてもらおうとする。


控えめに言っても、かなり無能な働きではなかろうか?かれから快と苦の知覚という任務を剥奪すべきではなかろうか。

だが実際はそうではない。それはなぜなのだろうか。



月給というもの

月給の額が決まりました、とA4の紙をいただいた。

恥ずかしながら、この年齢になって初めて月給というものを受け取ることになった。なんだかむず痒いかんじがある。

 

紙にはX級YY号給、Z万Z千円と記されている。

なぜX級YY号給なのかはわからない。たぶん聞けば根拠をきちんと教えていただけるのだろう。また、X級YY号がなぜZ万Z千円になるのかもわからない。これも、聞けば根拠を教えていただけるのだろう。聞いて納得してもしなくても諭吉さんは諭吉さんなので(そのうち栄ちゃんになるそうな)、いいとおもう。そういうものなのだろう。

 

ただ、YY号給でなく、仮にYY+2号給であっても、YY−2号給であったとしても、「そういうものなんだな」と思っていたのだろう。そしてどんな金額であっても、あとちょっとだけ高ければちょっとだけうれしいな、と思ったであろう。3倍や4倍になってはいけない。あとちょっとだけ高ければちょっとだけうれしい。どっちみちそうおもう。そういうものなのだろう。