しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

家と家族: ゲーム・オブ・スローンズSeason7におけるLF誅殺

エントリ名自体がネタバレになってしまって申し訳ない。以下の内容は、Season7を未視聴の方にとってはストレートなネタバレになっている。

 

 

 

 

 

ゲーム・オブ・スローンズ Season7の個人的に好きなシーン」というエントリを書こうとしていたのだけれど、それより先にどうしても、リトルフィンガーLittle Fingerことピーター・ベイリッシュ候の誅殺について考えを整理しておかなければならないとおもった。というのも、Season7の第7話(つまり現在公開されている最後のエピソード)でベイリッシュがサンサ・アリア姉妹に裁かれるこのシーンは、GoT全体のテーマ(のひとつ)を集約するものだとおもえるからだ。

 

 GoT全体のテーマとは何であるのか。そう簡単に絞り込めるものではないけれど、たとえばその一つとして、「男から女へ」というテーマが物語の大きな展開を規定していることは比較的わかりやすい。バラシオン王朝開祖ロバートの死後始まった内乱は、レンリー・バラシオン、スタニス・バラシオン、ジョフリー・バラシオン、エダード・スターク、ベイロン・グレイジョイという比較的オッサン濃度の高いキャラたちによって(レンリーとジョフリーはそうでもない…?)戦われた(「五王の戦い」)。しかし物語が進むにつれて五人の王たちは順に斃れ、いつのまにか女性たちが権力闘争のトップに立っている。

 陣営を整理すると、おおまかにはS7序盤ではサーセイ(+ユーロン)、サンサ&アリア&ジョン、デナーリスの3陣営に分かれており、S7途中でジョン達北方陣営とデナーリス組が同盟を結び、終盤には実質一対一の構図となる。これに、壁の向こうから来襲する冷え冷えガイコツ集団が加わる。

 人類の側は実質的にサーセイとデナーリスが2大巨頭であり(いや、デナーリスは人類なのかという話ではあるが)、5人の男たちのアホなケンカだったはずが、2人の女とガイコツの死闘という構図になっている。この「男の戦いが、いつのまにか女の戦いに」という流れはGoTの比較的わかりやすいテーマであろうとおもう。

 

 ただ、GoTの物語はそれに尽きるものではない。S7で、われらがピーター・ベイリッシュはついに裁きを受ける。なぜかれは死ななければならなかったのか。GoTのテーマが「男から女へ」だけであったなら、かれが死ぬ必然性は無い。かれはむしろ男性でありながら男性的な(剣や槍をふるうような)生き方を拒否し、男から女へという流れをこのうえなく巧く読み取って世渡りしてゆく。同じようにこの流れに揉まれつつ剣や槍を振るうしか能が無いのがジェイミー・ラニスター兄ちゃんであるが、それを書き始めるとまた長くなるので省こう(ベイリッシュ候とジェイミーを足して2で割ればサーセイにとって最良の伴侶になったのだろう)。要点は、ベイリッシュ候は「男から女へ」の流れを読み誤るどころか、物語の中ではむしろそれを促進する役割を果たしていたということである。だから、かれが死ぬことになったのは、「男から女へ」という物語構造の要請ではない。もう一つ別の物語の軸があるはずなのだ。それは何なのだろう?

 

 LF(いちいち書くのが面倒なので以後こう略称します)がサンサとアリアに殺されるシーンが、この問いの答えをあっさり示しているように見える。LFはウィンターフェルでサンサとアリアの間に相互不信の種をまいてゆく。ちょうどかれら姉妹の母とその姉にそうしたように。かれの目的はサンサからの「信頼」を得てウィンターフェルのNo.2になり、同時にサンサの肉体を得ることである。ただしこの「信頼」は、ジョンが周囲の人間から自然に得てゆくそれとは質が異なる。相手を不信と不安に陥れ、その弱みに忍び込むようにして自分を依存させるというやり方がLFの得意技である。アリアはその生贄となるはずだった。サンサにアリアを憎ませ、ひるがえってサンサに自分を愛させる。これがかれの基本方針だった。

 だがかれの企みは失敗におわる。サンサはLFの本性を見抜いていた。かれがやろうとしていることは、母親と叔母に対してかつてやったことの繰り返しであると気づく。そこで彼女はちょっとした腹芸をしてみせる。命乞いをする哀れなLF。冷ややかな表情の姉妹。あざやかに舞う刃。サンサとアリアの絆が、LFの陰謀に打ち勝ったのだ。めでたしめでたし…!

 

 そういうわけで、つまり、GoTのもうひとつのテーマとは「家族の絆」だということになる……と言ってよいのだろうか? 事情はもうちょっと複雑であるようにおもわれる。言い換えれば、権力欲べとべとのオッサンの陰謀よりも家族の絆のほうが大事だよ、後者のほうが「強い」のでLFみたいなキャラは最後に報復を受けるんだよ、といった単純なテーマであると解釈してよいということには、どうもならなそうなのだ。あるいは「家族の絆」がテーマであると言うにしても、それは「家族仲良しなのが一番だね」という意味ではないのではないか。

 というのも、家族の絆が大切だとすると、サーセイおよびラニスター家がS7時点のラスボスとして生き延びていることの説明がつかなくなるからだ。サーセイは単純な意味での家族というものを徹底的に否定するという役割を担っている。双子の弟が夫でもあり、3人の子供を喪い、別の弟に父を殺されている。また、デナーリスとジョンの関係もややこしい。

 

 この点をあらためて考えるためには、サーセイとデナーリスにおける「家族」の意味について検討しなければなるまい。するとおそらく、現代的な語義での家族というよりは、「お家」あるいは「血」が本当のテーマなのだろうという話に進んでゆくだろう。しかし文章が長くなってしまったので、前半としていったんエントリを閉じることにします。

 

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比較的きれいなベイリッシュ候


 ちなみに、同じ役者さんが演じる、そんなに陰謀は仕立てないけどやはりどこかベイリッシュ候っぽいキャラで、でも一応誅殺されず意外とまじめに世の中にのし上がってゆく人物を、同じHBO系のThe WIREという連続ドラマで見れます。時系列としてはこちらでの演技が評価されてGoTでも起用されたのかも。

 

 

ドラゴンストーン

ドラゴンストーン

 

 

 

 

わたしはいつ「かめはめ波」を出すことをやめたか

この問いはかなりはっきりと答えを出すことができて、自分の場合、小学2年生のどこかである。

なぜ2年生と断言できるかというと、この学年のときに引っ越したのだけれど、後述の「かめはめ波打ち切り」を意識したのが引っ越し先の新居のトイレの中でのことだったからだ。したがって正確には「2年生以後のいつか」ということになるはずだが、3年生になると自由帳に架空の鉄道車両や艦船の平面図を書くことに熱中していた。この「設計図」ノートにかめはめ波が入り込む余地は全く無いので、やはり2年生のうちだったということだとおもう。

 

なにが起きたのか。2年生のどの季節のことだったかまではもう思い出せないけれど、わたしは自宅のトイレに座っていた。そのとき突然に(しかしいろいろな伏線が事前に張られていたのだろう)、わたしは気づいた。もしかして、自分は「かめはめ波」を出すことができないのではないか。この仮説を検証するために、わたしはトイレの洋式便座に座ったまま、両手の平をあのかたちに結んで、しずかに、しかし満身の力をこめて「かめはめ波」を出そうとしてみた。そこで完璧なかめはめ波が出るとはもちろん思っていなかったが、ちょっと弱いかんじの青白いエネルギー弾がぽこんと出てくる可能性までは、まだ検証されていなかった。30秒ほどぐっと力んでみたが、エネルギー弾はかけらも生じなかった。そこでわたしは、自分はかめはめ波が出せないという結論を得た。

この検証をおこなう前、わたしは自在にかめはめ波を出せると思っていたのだろうか。おそらく、修行次第だと考えていたのだろう。「一輪車に乗れるようになる」「宇宙飛行士になる」「内閣総理大臣になる」「タイムマシンに乗る」「自由に空を飛ぶ」などの「そのうちできるようになるかもしれないこと」の想定リストのなかに、「かめはめ波」は無理なく同居していた。スペースシャトルから手を振るテレビの中の毛利衛さんと、ナッパやベジータかめはめ波を打つ孫悟空。ふたりは同列の存在だった。2年生のころ、わたしはかれらとは別の人間だったけれど、のぞめば同じことができるとぼんやりおもっていた。

ところが、そのときトイレのなかで突然に、「できない」という存在様態がわたしに芽生えた。それを他人から強引に学ばされたのではなく、自分自身でひとりきりで試すことができたのは幸運なことだった。おそらくそれはトイレという一人きりの個室であったことと無関係ではないだろう。わたしは、自分がかめはめ波が出せないと学んだ次の瞬間に、アニメの世界と「本当の」世界との区別もついていなかったのかという「恥」の概念をも学んだのである。

これらの一連の発見が獲得されるまえ、わたしはただひとつの世界に生きていたのだろう。スペースシャトルも、ナメック星も、外国も、絵本の中の世界も、すべて「地続き」だった。もうすこし進んで言うと、この世界に住んでいる限り、わたしは実際にかめはめ波を出すことができたのである。道で見つけた手頃なサイズの枝は最強の剣になった*1。友達もかめはめ波を出し、なにか特別の剣を見つけて振るっていた。

ところがあのトイレの実験を経て、わたしの世界はさまざまに枝分かれし、複層化した。「できない」を学ぶことで世界が別の意味で広がるというのは、不思議なことである。

*1:先日、やはり5歳から6歳くらいの背格好の少年が、枯葉の山の中からこのうえなく素晴らしい太さと長さの枝を見出し、「そうや、これや、これなんや…」という表情でじっくりと手と目で眺め回しながら歩き去るのを見たとき、わたしはかれの冒険の始まりを見送る魔法使いのような気持ちで静かに祝福のことばを胸にもった。

時間が飛ぶ

いろいろあって、働き始めている。

職場では会議やいろんな新しいお仕事や研究計画やらがわーっと降りてくる。メールと名刺がゆきかう。そして時間がまたたくまにすぎてゆく。ほんとうに、何度かまぶたをまたたいている間に、というかんじ。

 

朝8時すぎに駅のホームに立っている。そして気がつくと、19時半とか20時前ころに同じ駅のホームに立っている。時間がジャンプしているような感覚に襲われる。

「迷惑な空襲」/『この世界の片隅に』を見ながら

 おばあちゃんに一度だけ空襲のことを聞いたことがある。聞いたといってもそう詳しい話をされたのではなく、いったいなぜその話題になったのかもよく覚えていないのだけれど、「火なんかすごい熱くて、ガラスも溶けてね」と言った。そして「もうあんな迷惑なことしたらあかん」と決断するように短く言って終わった。実際、物語というよりは3文くらいで終わった。

 この「あんな迷惑なこと」という表現を聞いたとき、いくらなんでもそりゃないだろう、とわたしは思った。あまりに他人事というか、無責任というか、ゴミ出しのマナーの話じゃあるまいし。そして近代国家の公民としての戦争責任というものも、1ミリの千分の一くらいは引き受けていいのではないかとおもった。おばあちゃんにそれを押し付けるのは酷だけれど、「迷惑なこと」というのはあんまりだと。もちろんおばあちゃんが生きていた当時、彼女の政治的主体といったものは無いにひとしい。選挙権もなければ、意思を表明する自由もない。けれどそれでも、わずかな責任のかけらみたいなもの、空襲体験と大文字の歴史の間に「国民」としての自分を位置づけるような表現があってもいいのではないかとおもった。「迷惑なこと」というのは、その位置のまったく対極にある言い方だ、と。

 

 そう思っていたのだけれど、アマプラで『この世界の片隅に』を見ていたとき、この「迷惑なこと」という表現が、なぜかしっくりと腑に落ち直した。とくに空襲警報が何度もかかって、はるみちゃんが防空壕のなかで「もう空襲警報飽きたぁ」と言ったらへんで、すっと、うちのおばあちゃんは確かにそう思ったんだな、思っているんだな、ということがわかった気がした。上の段落で書いた「主体」や「歴史」や「国家」といったワードとは全く別の視界があった。

 おばあちゃんは『この世界の〜』のすずさんのような感受性は持っていない。また、すずさんが「迷惑なこと」という実感を持っていたということでもない。ただ、あの世界のなかの登場人物の一人に、そういう感想を持つひとがいても全く不思議はないなとおもえた。不思議な作品だ。

 

 それにしても、「もうあんな迷惑なことしたらあかん」というのはきわめて不思議な表現である。「したらあかん」の「する」主体は誰なのだろう。焼夷弾を落としたアメリカに向けて言っているのか、開戦した大日本帝国に向けて言っているのか。自分を含めた、近代国家の国民としての同世代の人びとに政治的に呼びかけているのか、無差別爆撃という手段を非難しているのか。おばあちゃんはそこらへんをほとんど分節していないし、できない。世界や歴史がなんらかのメカニズムによって駆動し積み重なってゆくという見方をせずに、もっともっちゃりした視界で世界を見ている。岡山の田舎の旧家の農家でそれなりに良い暮らしをしていたら戦中に縁談が来て、家から駅までゆくタクシー用の木炭を役所から特配してもらい、岡山駅から神戸駅まで白無垢で汽車に乗って突然都会の旅館の嫁になってしまった。おばあちゃんにとって、夫となったひとは東京の学校に行っていたたいそう賢いひとであるが、自分自身は「学」はない。もにゃーっとした世界を見上げている。するとそこに焼夷弾が落ちてくるし、夫は根こそぎ動員で満州に送られるしで、そりゃたしかに迷惑なことである。「もうあんな迷惑なことしたらあかん」という断言は、彼女がそうして生きながら最終的に得た結論である。ポリティカル・コレクトネスには欠けているかもしれないが、生きた視界から剥がれていない。

記憶の丸み: 西川祐子『古都の占領』(2017)

 以前お世話になっていた先生に今の自分の研究(災害の記憶に関すること)を話したとき紹介された本を読み始めている。  

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

古都の占領: 生活史からみる京都 1945‐1952

 

 

 進駐軍による京都市の占領を、副題にあるように個々人の「生活史」から描きなおしてゆく研究。

 読んでいてとても不思議で印象的なことは、史料から析出される占領軍の動向や、当時を知るひとびとのオーラル・ヒストリーによる記述の合間に、終戦時小学生だった著者自身の記憶が入り混じってゆくこと。

 

 占領期の京都のまちなかでは、〔進駐軍兵士の家族宿舎が設置された〕植物園内で働き、ときには軍用ジープで送られて帰宅する女性があるとよくない噂がたった。ついこのあいだの敵軍に立ち混じって働くのかという非難のまなざしと同時に、植物園内の豊かな生活や豊富な物資にたいする羨望の視線があった。わたし以外の家族は疎開先での生活がつづき、占領の末期になるまで京都に戻らなかった。その間、祖父母の高齢者家庭に貴重品であった食物や布などを少しずつ届けてくれたのは、母親のかつての同級生たち、なかでも、自分で働くことによって生きてゆかねばならない女性たちであった。そのなかには植物園でタイピストとして働く女性がいた。(76頁)

 

 この本は著者自身の記憶を書くためのものではない。記述の中心はあくまで膨大な史料と個人の小さな生活史にある。けれども、その記述に誘い出されるようにして、著者の思い出が文章のあちこちに埋め込まれてゆく。

 不思議で素晴らしいことは、史料や他者の生活史による記述と、著者自身の思い出による記述との間が、とてもなめらかに、なだらかに続いてゆくことだ。歴史の研究書のなかに著者の個人的な記憶が挟み込まれることは実は珍しくない。ただ、多くの例では、著者の記憶が書き込まれるとき、奇妙な力みというか、他の記述との裂け目のようなものが文章のなかに現れる。「卑近な例で恐縮だが実は筆者も…」とか、「個人的な回想を差し挟むことは歴史研究としての節度を破ることになりかねないかと恐れるのであるが…」といった留保の表現がわざわざ付け加えられる。もちろんそれは(その著者の)研究の方法論にとって重要なことではあるけれど、読んでいて凸凹したかんじを受ける。

 この本はそれと正反対だ。史料と生活史の引用の合間にいつのまにか著者の短い回想が混じり、すっと静かに退いて、また史料の引用にもどる。力みがなく、語りすぎることもなく、抑制を強調することもない。なだらか。

 (外傷的なものをここでは除くとして、)記憶とはそもそもそういうものではないかとおもう。他人の記録や語りを聞いているうちに、おのずから自分自身の記憶がよみがえらされ、他人の語りに重ね合わされる。そこには視覚や聴覚の分節が持つような「切れ目」があまりなく、なめらかさや曖昧さが伴いつつ、自身と他人の記憶の違いと共同性が感じ取られている。

 

支援と「別世界感」(『セックスワーク・スタディーズ』)

 

セックスワーク・スタディーズ

セックスワーク・スタディーズ

 

 

 指導教員が勧めていたので読んでみた。あ、これは読んでおいてよかったなと思った。同じテーマにくくることはできないけれど、上間陽子さんの『裸足で逃げる』、伊藤詩織『ブラックボックス』と合わせてわたしの「古典」3作品になった。

 

それでは、次に支援者の想定からこぼれてしまいがちなセックスワーカーの例として、トランス男性のセックスワークについて見ていきます。トランス男性のセックスワークには店舗型のものもありますが、それとは別に個人で客を探す「売り専ボード」というものがあり、「売り専・FTM・ウリ」等で検索するとひっかかります。掲示板の中を見ると、例えばこんな投稿があります。

 

「都内でサポしていただける方募集してます。都内でホ別0.8、ゴム付でしたら挿し大丈夫です。未ホル/未オペ/見た目は中性的だと思います。プロフィールと場所を明記の上メールしていただけると助かります。よろしくお願いします。」

 

 この投稿の意味が分かるでしょうか? 答え合わせは後に回すとして、コミュニティの言葉を覚えるのはとても大事なことです。例えば電話相談で、ワーカーが「ホテヘルで働いていて…」という話をした時に、相談員が「ホテヘルって何?」と言ったとします。その時、相談した人が思うのは、この人、そういう業界のことを知らないで今まで生きてこれたんだな」という別世界感です。そうやって、夜の仕事や風俗に近寄るような人生ではなかった人が話を聴いているんだな、ということを相談者は敏感に感じ取ります。

 (SWASH編『セックスワークスタディーズ』日本評論社、2018年、51-2頁)

 

「別世界感」という言葉はこの文脈だけでなく、いろいろな場面で使えるだろうとおもう。

自分の経験では、悪い「別世界感」と、さらに悪い「別世界感」と、良い方向の「別世界感」の3種類がある。〈悪い〉パターンは、ここに挙げられているような、自分が相手の世界を知らないことで相手に与えてしまうもの。言葉のズレが亀裂となって、引き裂かれてゆく。

〈さらに悪い〉パターンは、本当は違う世界に住んでいるのに、あたかも同じ世界にいるかのように振る舞うときに相手が感じる別世界感。

〈良い方向〉のパターンの別世界感があるとすれば、自分が住む世界が相手と違うことを自分自身に確かめさせたうえで、相手の世界と言葉を知ろうとするときに双方向に生じるもの。

 

 

無かったことにはならぬであろうか。全てのことが霧消し、元通りにならないだろうか。図書館の古い本棚の裏の壁を手で探っていると錆びついた取っ手にゆきあたり、それをゆっくり回すと異次元の歯車が逆回転しはじめ、時間がすべて巻き戻り、その間に起きたすべての努力と破壊と悲痛と希望と洞察が消失する、ということにはならないだろうか。そこでは原子力発電所は相変わらずあやふやに稼働し続け、人間社会と地域のさまざまな矛盾がまんべんなく先送りされている。そして全ていつもどおりの10日、11日、12日が過ぎてゆく。そのように、すべて無かったことにならぬであろうか。