しずかなアンテナ

哲学の瓦礫片のための場所。

『隠し剣 鬼の爪』終盤の提灯の隠喩

映画『隠し剣鬼の爪』(原作藤沢周平、監督山田洋次、2004年)の終盤に、主人公・片桐(永瀬正敏)の家を、片桐の旧友・狭間の妻が訪れるシーンがある。

片桐は藩に背いた狭間(小澤征悦)を藩命で討たねばならない。その前夜に、狭間の妻(高島礼子)が片桐の家をひとりで訪れ、夫の助命を嘆願する。

夫を逃してくれるなら何でもする、この肉体を好きにして良い、などと狭間の妻は言う。片桐はそれに驚き、断り、狭間の妻に引き返すよう言う。片桐は「据え膳食わぬは~」といった下品な考えを起こさず、あくまで狭間の妻に人間同士として対面し、身体の交わりを持つことなく帰らせる。観客に、片桐の人間としてのあるべきまっとうさ、ひねくれていない人格が際立たされる。

(たぶんたいていの男は、「高島礼子が真夜中にひとりで訪れて「なんでもしますから…」とか言うんやで、俺なら…」と心の中で考えるのだ。)

 

ただこのとき、気になるシーンがある。帰らせる直前、玄関の土間で、片桐が狭間の妻の提灯に火を入れ直してやる。

この動きがどうにも性的な隠喩ではないかと思えてならない。

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「火いれるさけ、提灯」。狭間の妻から提灯を受け取る。

 

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提灯の笠を下にたたむ。

 

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中のロウソクを露出させる。

 

この提灯は男性器なのかもしれない、とおもった。

この一連の動作はまずは片桐の優しさを表す。けれどもそれは従前の会話ですでに十分表現されている。江戸時代の生活をリアルに表現してもいる。けれどもわざわざこの場面でやる必然性は無い。だから、このシーンは何かの理由があって挿入されているんじゃないかとおもう。

 

男性器の隠喩だとしたら、それはどんな意味をもつのだろう。

(解釈1)提灯は片桐の男性器である。片桐は口では善良なことを言っているが、同時にかれの下半身は性的な関心・可能性に反応している。そのことを示している。

(解釈2)提灯は片桐の男性器である。提灯の受け渡しは、狭間の妻と片桐の精神的な情交を表現している。

(解釈3)提灯は夫である狭間の男性器である。

(解釈4)提灯は片桐の男性器でも狭間のそれでもなく、全般的な性的なイメージの予告である。このあと狭間の妻は御家老の堀様(緒形拳)の家にも助命嘆願にゆくという。堀は片桐と対照的な人物で、この映画の悪役である。狭間の妻と堀の情交がこの時点ですでに匂わされている。

 

いろいろと考えてみたけれど、どれもしっくりこない。2と4がそれっぽいかなともおもう。

 

隠し剣 鬼の爪

隠し剣 鬼の爪

 

 

同居者を殺害してしまった。

同居者を殺害してしまった。一瞬迷った。けれども殺意に身を任せた。

この居心地の良い部屋に勝手に乗り込んだ向こうが悪いのだ。

 

わたしの行為は本当に衝動的だっただろうか。

いま、自問している。

 

さる筋から先日買い求めた凶器を手にした。

狙いを外さないよう、付属品の細いノズルを取り付けた。わたしは落ち着いていたはずだ。その動作は拳銃にサイレンサーを取り付けるのに似ていた。

 

わたしたちはわかりあえない。この空間はわたしのものだ。

共存の道はない。心の中で、相手への憎しみと謝罪がごちゃごちゃになっていた。

トリガーを引いた。

 

よく効いたらしい。そいつはひっくりかえって、立てなくなった。

完全に息絶えたと思ったが、ときたま手足をひくひくさせている。その姿がまたおぞましい。

 

断末魔の苦しみを味わっているのだろうか。人間にとっては10分ほどの時間でも、昆虫にとっては数週間分の体感時間かもしれない。

いや、やつらには苦しみや時間の感覚など無いのかもしれない。それはわからない。ただ、死にかけているすがたにはどうしても憐れみを感じてしまう。

毒ガスをもういちど噴霧してやろう。

 

遺体を処理したあと、空気を入れ替えるために窓を開けた。

小さいけれど心地よいわたしの部屋。そしてやはり小さいけれど住心地の良い、わたしの町。もちろん町は部屋とちがってわたしの占有物ではないが、大切な居場所だ。この国、この星に生まれたことに満足を覚える。黒光りの六本脚も、わざわざこの部屋にやってこなければ、ほかの場所で過ごせばよかったのだ。

 

そのようなことをぼんやりと考えながら見ていた夜空に突然にゅっと巨大な筒が現れた。大気を突き抜けてきた、無造作なただの筒。どこから伸びてきたのか、反対の端は見えない。なんだこれは、とあっけに取られて見ていた筒先から突然しゅううと白い霧が吹き出して、体が…動かな……

 

……しばらく目を話したすきに、気味の悪い2本脚のぬめぬめした生き物が部屋の隅で繁殖していたようだ。一瞬迷った。けれども殺意に身を任せた。この居心地の良い部屋に勝手に乗り込んだ向こうが悪いのだ。多細胞生物の分際で、自分は知能を持っていると信じ込んでいるらしい。わたしたちはわかりあえない。この空間はわたしのものだ。

共存の道はない。心の中で、相手への憎しみと謝罪がごちゃごちゃになっていた。トリガーを引いた。

 よく効いたらしい。そいつはひっくりかえって、立てなくなった。完全に息絶えたと思ったが、ときたま手足をひくひくさせている。その姿がまたおぞましい。

 断末魔の苦しみを味わっているのだろうか。わたしたちにとっては10分ほどの時間でも、哺乳類にとっては数週間分の体感時間かもしれない。

 

 

 

眉間に皺を寄せない

眉間に皺を寄せないこと。

なにかを考えるときも、悩むときも、不機嫌なときも、そうした感情に皮膚をすべて預けないこと。

恐ろしい痛みや悲しみや苦痛の場合には、体のほうが全身で皺を作ろうとしているので、眉間が固まるのもやむをえない。そうした場合は別として、眉間に皺を寄せないこと。環境から均等に距離を保つこと。

仮にセネガルが追いついたとしても、西野監督の判断を擁護したかどうか

ポーランド-日本戦の終盤、別会場でセネガルがコロンビアに負けつつあるため、日本は1-0で負けているにも関わらずパス回しをして時間を稼いだ。そして警告数差により決勝トーナメント進出を決めた。

 

観客からブーイングを受けるけれども、西野監督はあえて安全な敗北を保つことで、より大きな戦略的勝利を手にした。多くのひとが彼の判断が合理的であると追認し、称賛した。

わたしも、なるほどそういう判断が可能なのかと感心した。

 

けれども、セネガルがコロンビアに追いつく可能性もあった。もしそうなっていたら、セネガルが追いついたと知らされた瞬間、パス回しをしていた日本代表は再度あわてて反撃にでなければならなかっただろう。それはたいそう喜劇的な光景だっただろう。多くのメディアやサポーターは西野監督の選択を非難しただろう。

その世界線で、なおも「いや、それでもあの状況ではパス回しをするのが合理的な判断だったんだ。ただ賭けが裏目に出てしまっただけなのだ。賭け自体は十分成算があったんだ」と西野監督の判断を擁護するひとはどれくらいいるだろうか。たぶん、勝利のあとに追認するひとよりはずっと少ないだろう。自分がその環境にいたら「みっともないことをしたなぁ、セネガルを甘く見たのかなぁ」と批判的に見ていただろうとおもう。

 

勝ったら追認して負けたら擁護しないのであれば、それは結果から「合理性」を逆算しているだけなので、本当の意味での合理性ではない。

しかし現実世界では、こういった、結果から「合理性」を逆算するという心理がどうしてもはたらいてしまう。

 

ワールドカップにほとんど興味がないのですが、このようなことをぼんやり考えました。

 

サポーターがゴミ拾いするのは現地の雇用を奪ってるんじゃないかというまあよくあるアレ - しずかなアンテナ

 

「世界一のツリー」騒動の続報が出てしまった

 

昨年12月、神戸のメリケンパークで「世界一のクリスマスツリー」なるイベントが開催された。わたしはこのイベントが阪神大震災の鎮魂を謳うものであることが、端的に意味がわからないと思った。やめてほしいと思った。そのことは書いた。

 

 

このとき書いたことをいまいちど要約すると、

・「クリスマス」と「震災」は基本的に無関係

・「樹齢150年」と「神戸港150周年」を重ねるのはわかるが、これらは震災と無関係

・「議論を巻き起こす」ための具体的な手続きを用意しておらず、投げっぱなし

・「復興」や「再生」や「鎮魂」といった言葉の意味を深く考えているのが疑問

といった疑問があった。つまるところ、まずイベントありきで、そこに神戸港150年や震災鎮魂といったキーワードを後から貼り付けただけではないかという疑いを持った。疑いというより、不快感であり、怒りだった。

 

ともあれ、この事件は物理的な事故は起こさず終わった。観光客は何万人も来たということで、それはそれで成功したということなのだろう。この主催者が別の地域で似たことを再度やらかさなければいいがとだけ考えて、あとは可能な限り記憶から押しやった。

 

ところが実は終わっていなかった。ということを上記神戸新聞の記事で知った。

田中康夫氏が昨年12月28日にイベントを批判する記事を週刊誌に書き、Youtubeで批判した。その後主催者の西畠氏側が田中氏の記事と動画に対して法的手続きを取っていた。

 

 

この田中氏のサイトがすごく読みにくいのだけれど整理すると*1

・12月12日発売の『サンデー毎日』に田中氏が「ツリー」イベントを批判する記事を掲載

・1月18日、毎日新聞が西畠氏からの「通知書」の請求には応じられないとする「回答書」を送付。

・2月1日、西畠氏側代理人が田中氏に通知書を送付。慰謝料金100万円の支払いと動画の削除を要求。

・2月15日、田中氏が回答書を送付。

・3月20日、西畠氏代理人が慰謝料1550万円を求めて神戸地裁伊丹支部に訴状提出。

・5月7日、伊丹支部から神戸地裁に事件が回付される

・7月11日に第一回口頭弁論

という流れ。らしい。知らなかった。

 

 以下、備忘録として自分の感想を2点、書いておく。

 もうやめてほしい、というのがもっとも大きな気持ち。本人サイトのページを見るかぎり、田中氏の文章表現は品が欠けている。西畠氏の訴訟は自分の事業を守るために必要なのかもしれないけれど、イベントに対して市内から多くの批判があったということを自身にフィードバックしていないようにおもえる。神戸という街や、その市民や、木や、死者に対して、この訴訟がどんな意味を持つのだろうか。それを説明することばを探し直さない限り、自分のやっていたことの本質は一種の「興行」で、開催地域に根付いたものではないとみなされてしまうのではないか。

 もうひとつは、そろそろ「ルミナリエ」を本気で考え直さなければならないのではないか、ということ。ツリーのイベントを「呼び込んで」しまったのは、ルミナリエという土台がすでにあったからだ。ルミナリエは当初復興と追悼のシンボルとして開催された。わたし自身、一年目のルミナリエを歩いた。あのときのことは、震災の揺れと同じく、なんともことばに言い表すことができない。本当に大切な体験だったし、いまでもその思いは変わらない。しかし二年目から何かが変わったように感じた。三年目以降は行かなくなった。

 ルミナリエに対する感情はかなりひとそれぞれなのではないかとおもう。最初の年から忌避するひともいただろうし、毎年変わらず参加してきたひともいるかもしれない。だからわたしの感想を一般化することは避けたいのだけれど、しかし現在は圧倒的にクリスマスイベントという印象を持たざるを得ない。あえて下品な言い方をするけれど、追悼というより、ラブホ業界にとって重要だろうなという感想がある。

 この変化自体はかならずしも悪いものではないかもしれない。平凡で騒々しいイベントをするだけの街になってしまったということは、そのような街に復興した証だ、とも言える。(そしてまた、光の下でわちゃわちゃと戯れる若者たちのなかに、「そのように生きていたかもしれない死者」たちをわたしは見出すことがある。これもうまく表現できないのだけれど、かれらの「代わりに」遊んでくれているような気がすることがある。なんというか、ルミナリエに来る観光客を批判する気は全くなくて、来るならぜひ無邪気に楽しんで欲しいともおもう。亡くなったひとたちもそれを拒絶はすまい。)

 

 しかしながら、変化の「けじめ」をそろそろつける必要がある。本当は追悼の意味合いがどんどん薄れているのに、表向きは追悼ということで商業イベントを続けている。その「羊頭狗肉」っぽさもまた、被災地の内側のひとびとはある程度なやみ、ときどき文句を言いつつ、受け入れてきた。ところが「クリスマスツリー」のイベントはそうした逡巡すらもはやなかった。もっと単純で醜悪なものだとわたしは感じた。それを呼び込んでしまったのは、「ルミナリエ」をもう止めてはどうかという議論を真剣に始めていなかったためではないか。

 だから西畠氏への批判はもう切り上げて(おそらく誰が何を言っても届かないだろう)、あらためて市民自身が、なぜ「ツリー」イベントを引き込んでしまったのかを話し合うことが必要なのだとおもう。(そのための手順を具体的に考えてみたこともあるのだけれど、ひとりでは身が足りない)

 

 クリスマスにはまだだいぶ遠い季節にこのようなことを考えました。

 

 

*1:震災の追悼が自分の研究課題のひとつなので、とりあえず追いかけておかざるをえない

サポーターがゴミ拾いするのは現地の雇用を奪ってるんじゃないかというまあよくあるアレ

日本からのサポーターは観戦後にゴミを拾うのでエライという話が出ている。

 

日本サポーターのゴミ拾いが世界的関心事に…ロイター通信が写真を30枚以上配信 : スポーツ報知

世界から称賛された日本サポのゴミ拾い。吉田麻也「誇らしい」【ロシアW杯】 | フットボールチャンネル

 

前から思ってたのだけれど、これ結局、地元の雇用を奪ってるんじゃないかなぁ。

 

観客席が散らかれば、主催者は掃除せざるをえない。掃除には時間と人手がかかる。お金を費やして誰かを雇わざるをえない。すると掃除業務を地元の誰かが請け負うことになる。そのひとはそれで生活をする。

海外からのサポーターが片付けをしてしまうと、その仕事がなくなる。

 

こういう「風が吹かなくなれば桶屋が会社更生法手続き」の推測がほんとうに正しいかどうか、私はわからない。ただ、理屈としてはありうるんじゃないかと思っていて、それが「日本のサポーターは素晴らしい」「世界が真似する日本の美徳」みたいな別のストーリーで無視されちゃうのがなんとも気持ち悪いなとおもっている。

 

たくさんのひとびと(可能な限り全員)が、各自の時間と労力をすこしずつ無償で出し合って、共同体の業務を達成する。日本のひとびとはこの方式がわりかし好きらしいと私は観察している。(日本人だけではないかもしれないが)

ベルマーク収拾とか、ペットボトルの回収とか、町内の掃除とか。いくらでも例が出る。

こういう共同作業は通俗道徳と密接に一体化する。とりわけ、時間と労力の小出し供出にこまごまと「心を込める」のが良いとされている。たとえばペットボトルを回収するときもきちんと中を水洗いして、外側のフィルムを外し、キャップももちろん別にする。しかし社会全体で考えると、この「こまごま分担」にかかる労力は馬鹿にならない。場合によっては、分担部分の工程は最低限にして、中央で機械や熟練作業員によってガガっとやったほうが効率が良いこともあるはずだ。家事は減るし、中央で処理にあたるひとの雇用も生まれる。しかし、全体の効率より、いま目の前にあるタスクに自分が「みんなのために」手間暇かけることをよしとする。

専門化分業を拒み、生産性を下げる代わりに、共同体の連帯感を確保する、という方式なのだろう。

 

日本国内をそれで回転させるのは自由だけれど、「みんなで協力して片付ける」という部分だけを海外に持ち込んで手際よく帰国してしまうと、実は現地に迷惑になっている、ということもあるのではなかろうか。

 

仮にセネガルが追いついたとしても、西野監督の判断を擁護したかどうか - しずかなアンテナ

 

猫の事務所

電車の隣の座席で、女性が少年にずっと小言を言っていた。親子らしかった。仮に母子としておく。

ずっとずっと母親が何かをこまごまこまごま言っていた。男の子は、数分に一回、「わかってる」とか「受け止めるよ」とか不機嫌そうに言い返すのだけれど、子供が一言言い返すと、それを全て塗り潰さなければならないかのように母親はさらに繰り言を続けた。

子供に何かを説明して納得させることが目的なのではなく、じぶんの心のスペースを子供の鼓膜の裏まで押し拡げるのが目的なのかもしれない、とおもった。


こういうとき、宮沢賢治の『猫の事務所』を思い出す。事務所で働く竈猫が、ほかの書記の猫にいじめられている。物語の最後に突然「獅子」が出てきて「やめてしまへ。えい。解散を命じる」と宣告する。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/464_19941.html

「えい。解散を命じる。」と言えたらいいなと思ってしまう。この場合は事務室ではなく家族なのだけれど。もう家族解散!親子解散!みたいな。そんな権限はわたしにはないし、わたしは獅子ではないし、あの男の子も別にそれを望んではいないだろう。でも、それしかないじゃないかとおもってしまう。解散。